漂流日誌

札幌のNPO「訪問と居場所 漂流教室」のブログです。活動内容や教育関連の情報、スタッフの日常などを書いています。2002年より毎日更新

自分の中の「だめさ加減」と遊びながら生きる

■ボランティアスタッフの坂岡です。今日は修士論文の進み具合について、指導教員と相談してきました。自分は「目上の人」と話すのがわりと苦手です。緊張してしまうからです。(もう三年ほどのお付き合いになる先生に対してすら……。)しかも今回、あまり仕事が進んでいなかったので、そこらへんを叱られそうな気がして、なおさら行く足取りが重かったのです。

■そこでいざいってみると、意外と普通に話せている自分におどろきました。「普通」とはどういうことなのかというと、「やりとり」ができるようになった。以前なら、「君、ここの部分はよくないんじゃない」「直した方がいいんじゃないの」ということを言われると、単に「しょぼーん」としていたのですが、今回は、「ああ〜なるほど、そうですね」と余裕をもって受け止めたり、「確かに○○の点はそうですが、××という面もあると考えています」と自分の意見を伝えることができていたのです。相手の様子をまともに見ないで、「自分を守る」ことに汲々としていた以前に比べて、今回は「相手の呼吸」が少し見えるようになった。また、自分の意見を言えるようになった。「前に比べて」というだけで、表面的には小さな変化ですが、これはちょっとした驚きでした。

■ただ、こういうコミュニケーションを別に意識して行おうとしたわけではないのです。自分でも驚いたくらいですし、自分の中の無意識の何かが、小さく、しかし確実に変化したのだと思います。

■自分の中の何が変化したのだろうか?ということを考えてみると、「自分の中のだめさ加減」に「呆れ笑い」ができるようになったのだと思います。様々な人たちと関わりを通して、迷惑をかけたり、かけられたり、傷つけたり、傷つけられたりということを繰り返し、「なんで俺はこうなんだ」という葛藤を繰り返し、しまいには「自分で自分のだめさ加減にあきらめがつく」という瞬間が訪れる気がします。

■その瞬間、自分に対する「苦笑い」とも「呆れ笑い」ともつかない、ほろ苦さとおかしみのいりまじったが笑いが、ため息とともに出てきました。その「ため息まじりの笑い」とともに、自分の中の何かを受け入れられた感触がありました。たぶん、その「自分への苦笑い」の感覚が今回もまだ生きていて、それが相手の意見を受け止める少しの余裕につながったのだろうと考えられます。

■以前もとりあげたことのある、英国の精神分析ウィニコットは、「人間というのは普通に遊べる能力を発揮するならだれでも健康に生きていける」と考えました。「遊ぶ」というのは、「自分の心の中身と遊べる」、ということです。重荷を抱えていることそのものが「心の病」なのではなく、自分の中の重荷やダメな部分とうまく付き合えるようになることが「健康」なのだというのです。これはけっこう的を射ているのじゃないでしょうか。

■しかし、ウィニコットは「遊べる能力」は、他者と「遊ぶ」という関係性を通じて発達するとも述べています。「自分のだめさ加減」を、「あんたって子は、ほんまにあほやなあ〜」と笑ってくれる母親や、「まったく、おまえってやつは。。。」と言いながらも付き合いを続けてくれる友人たちとのやり取りを通じて、「生き残ってくれる」他者の存在を鏡とし、自分と「遊ぶ」ことができるようになっていく。「遊べる」ようになるには、一人になって自分と付き合うことと、仲間と付き合うこと、その両方が大事なのでしょう。