漂流日誌

札幌のNPO「訪問と居場所 漂流教室」のブログです。活動内容や教育関連の情報、スタッフの日常などを書いています。2002年より毎日更新

苫苦

■苫小牧の協同集会で10代〜20代の人たち6人がディスカッションをしていたのだが、聞いてて何だか苦しくなった。コミュニケーションをとるのが難しい。特に世代が離れた人とどう接していいか分からない。挨拶をするのも怖い。同世代は自分のいないところで何を言われているか不安。直接は言われなくてもLINEで何か言われているかも等々。

■うーん。コミュニケーションというものを大事に捉えすぎてるんじゃないのかなー。定型なんてないんだけどな。要は自分が生きていくのに困らなければいいので、目標を定めるようなもんじゃないんだけど。

■あまりに苦しくなったので、二点コメントした。

  • 挨拶は会話を始めるためのものじゃなく、終わらせるためのもの。または相手との距離を取るもの。親しくなったら、そんなに丁寧に挨拶はしない。親しくないから、関わらないために挨拶をする
  • 大人がコミュニケーション上手なわけではない。「仕事」という、比較的広い世代、範囲にわたって共通に語れる話題があるから、そう見えるだけ。例えば学校は「共通の空間」ではあっても、決して共通の話題があるわけじゃない。だから勢い、構成員そのものを共通の話題にする。それが「キャラ付け」「いじる」ということで、度が過ぎればいじめになる

■学校には本来、勉強という共通の話題があるはずなんだけど、評価の物差しになってしまってるところがつらい。話題にすると、どうしても自分と他人を比べることになってしまうから。

■ついでに、いくら命の大切さを説いてもいじめはなくならない、というか逆効果じゃないか、という話もした。だって、相手の大切なものを傷つけようとするからいじめなので、命が大事ならそれを狙うでしょう。だからどうすれば、という手立ては思いつかないけれど、コミュニケーションの重視がいじめに一役買っていることは間違いないと思うな。人間関係の中で起こるものなので、関係が重視されればされるほど、そこから外れる人は攻撃されやすくなる。

■むむ。改めて見返すと「協同」を掲げた集会で、挨拶やコミュニケーションをそんなに大事にするな、という発言をしてきたわけか。まあいい。空気は読まん!

♪東京コミュニケーショーン。人見知りするかーい

■というか、相手がどうでもそれなりに付き合うのがコミュニケーションってもんじゃないんかい。「それなり」にはきっと「そっとしておく」「適当に放っておく」という選択肢だってあるはずで、居て辛さを感じるなら、周りにその能力がないのかもよ。自分のせいだとばかり思う必要はないんじゃないかな。(11/19夜)