漂流日誌

札幌のNPO「訪問と居場所 漂流教室」のブログです。活動内容や教育関連の情報、スタッフの日常などを書いています。2002年より毎日更新

北海道特別支援教育学会その2

■7月10日は、学会企画シンポジウム1「当事者、不登校支援者との語りから考える必要な支援とは?」で、シンポジストとして発表する。企画した道教大札幌校の齋藤さんのまとめを先に紹介する。

■「発達障害不登校から見えること」として齋藤さんは学校の「標準化機能」に着目する。子どもを標準化するのが学校の機能ならば、不適応の子は標準化の失敗=「逸脱者」となる。逸脱したものは不安を与える。または標準化への努力を否定する存在になり得る。これはいじめにも繋がる構造で、だから教師は「標準化」への後ろめたさを感じて欲しいと話していた。

■また、「喪失」という言葉が何度か出た。標準化される中で「失った価値」「死んだ価値観」となったものを、誰が受け止め癒すのか。成長する中で失ったものは、きちんと自分の中で折り合いをつける作業が必要だ。そこへの想像力が教師に求められる。

■最後に、「手持ちの力を持って、今を共に生きる」という言葉が紹介された。教育はもっぱら「将来獲得する能力のために今を我慢する」という考えで動いているが、そこで「喪失」するものに思いを凝らすこと。子供が「今ある」力で「今ある」人生を生きているときに、そこにつき合うことの大事さを語っているのだろう。


■シンポジストは5組。トップバッターは発達障害の成人当事者で、不登校経験はないが、どんな学校生活を送っていたか。また、成人して一時引きこもっていたときの話をしていた。面白いと思ったのが、「家で過ごすツールは完全には取り上げない。しかし少し調整して試しに『退屈』にさせてみる」という考察で、「試しに」と「退屈」がいい。また、引きこもってたのがバイトを始めた場合、それでもしばらくは小遣いを減らさないで、という訴えも参考になった。できるようになったからと止めてしまうと、「『頑張った方が残念な結果になる』としか思えなくなりやる気を挫いてしまいかねません」とのこと。なるほどね。

■ドンマイの会からは保護者の立場で発表があった。発達障害に絡んでどうしても出るのが「いじめ」で、上の成人当事者もこの発表も、いじめ体験が語られた。彼らは学校に行きたい(行かねばと思っている)ので、本人も周囲も尚更つらい。「発達障害の特性と子どもの人間性(人柄)はまったくの別物」とレジュメにあるが、その通りだと思う。そこをどうしても一緒に見てしまって、いじめの対象になったりワガママととられたり、逆に可能性を潰されたりもする(他人の気持ちが分からない“人間”といった扱いなど)。

■保健室と相談指導学級からは、学級以外の居場所として共通点の多い発表があった。居場所で肝要なのは実は「場所」ではなく「人」、という話。それぞれの子供に合わせた切り口を模索しつつ進んでいることなど、フリースクールと似通ったところも多い。また、学校にはその「切り口」がたくさんあるのだ。行事だったり給食だったり休み時間だったり。こうして考えると、学校という機関は強いなと思う。また、学校という世界はかなり構造化されてることも分かる。なぜそこで暮らしづらいのだろう。「標準化」の罠にはまってるのか。

漂流教室の発表については書くことなし。下の写真を見ればどんな様子だったか想像がつくだろう。お前ら態度悪い。