漂流日誌

札幌のNPO「訪問と居場所 漂流教室」のブログです。活動内容や教育関連の情報、スタッフの日常などを書いています。2002年より毎日更新

拡散と収束

■熟議について話す中で、教育について語る人は議論を収束させず拡散させていく傾向がある、そういうやり方が好きなのだろうか、という話が出た。面白い。好きというか、話したいことと表し方のミスマッチだろうと俺は思っている。教育問題って、自分の体験を語るために現行制度を利用する、という形になりやすいんだよ。

■これが現行制度を語るために自分の体験を使うのなら、別に問題にはならない。議論は制度問題に収束する。それが、実際そのつもりで喋って、いつの間にか体験談を熱心に語っていた、ということが割りとある。そこは本当にごっちゃになりやすくて、やっぱりみんな自分のことを話したいんだよね。それだけテーマが近い、ということでもある。または個人の中で教育の占めるウェイトがそれだけ大きい、と言えるのかな。

■過去の体験を今の制度で語ろうとするから、突き詰めるとどこかで無理が出る。だから、問題を拡散させ焦点をぼやかして終わらせる。だいたいこんな仕組じゃないのかな。

■じゃあ、これからどーすんの、ということなんだけど、例えば、自分の問題は棚上げして別の人のことを考える、というやり方はどうだろう。自助グループに新しい人が入ってきたときなんか、割りと自然にこういう状況になる。その人の課題を考えるために自分の経験を使うことになるのでは。

■または、運営側に回る、という手もある。熟議のファシリテーターを持ち回りにするとかね。この場合も、自分をおいて他人のことを考えないといけない。

■もっとも、これらは体験談の抑制にはなっても議論を収束させるかは怪しい。テーマをグッと具体的なものにしぼるか。そうすると参加者の問題が出てくる。

■結局、やる側のデザインなんだよね。どんな人にどれくらい来て欲しいのか。という当たり前の結論に落ち着いてみたり。ま、今後に乞うご期待。