漂流日誌

札幌のNPO「訪問と居場所 漂流教室」のブログです。活動内容や教育関連の情報、スタッフの日常などを書いています。2002年より毎日更新

高校入試のこと

■久しぶりの丸一日休みの日曜日だ。夕方より、イギリス製折り畳み自転車を買ってにこにこの友人と会食。ジンギスカン。近況を話し、楽しむ。お互いの歳がいい歳であることをしみじみと確認。

■もう少しで高校入試の合否が発表される。元学習塾勤めなのに、年々入試の内容については興味が薄れていく。そんな風に距離を置いてみて考えたこと。

■自分が教えていた頃までは、どの高校に行くかが学力がどの程度身に付いたかの物差しとして考える人が大多数だった感覚がある。一ランクでも上の高校に入れるように頑張ろうと自分も子供を励ましたし、それを達成した子らは充実した表情で勉強して良かったと言っていた。教育する側受ける側双方にとって、目標が手の届くところに、目に見える形で存在していたのだ。しかし、もうそんな人はだいぶ少なくなっているのかもしれない。PISA文科省がやる学力テストに人々があれだけ騒ぐのは、逆に言えば入試を通過してどこの学校に行くかということが、人々の中で学力とは無関係になってきているからではないか。

■小中高大社会というお決まりの「進路」が保障されなくなっているというのは、その道に乗る人が固定されつつあるからであるのと、そうでない道を生きる人が不安定な人生を送る可能性が高い状況にあるのと、二点によると思う。それは格差が固定されつつある社会の姿であって、「就活」と学力には何の関係も無いことになってくる。片方で幼少期からお金をかけて教育環境を整備して子供が「進路」を進めるようにする家庭があって、もう片方では小〜大をどういう風に過ごそうと、「社会に出る」=就職するということさえできればいいという家庭がある。前者を教育の目標と言われれても、それは家庭内文化の話しだから、学校にとっては領域外のことだ。後者を教育の目標とすれば、学校の存在意義は無くなる。さて、多くを占める後者に対して学校は何を目標とするか。自分自身の存在意義をかけて、入試ではなく学力調査に邁進するのはそういうことが背景になっているのか。