漂流日誌

札幌のNPO「訪問と居場所 漂流教室」のブログです。活動内容や教育関連の情報、スタッフの日常などを書いています。2002年より毎日更新

第2回FSネット教育フォーラム

寺脇研氏を講師に迎えての2回目の教育フォーラム。来場者は60人。テーマである「『教育』は何を支えるか」は開始5分で回答が出た。曰く、「『教育』は『学習』を支える。『学習』が個性あふれる豊かな文化をつくる」。「学習」は個人がするもので、「教育」はそれを助ける手段でしかない。手段のはずが目的になってしまっていることに問題があるんです、と実にわかりやすい。

■なので、最近は「教育」という言葉を可能な限り「学習」に置き換えているとのこと。例えば憲法26条、「すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、等しく教育を受ける権利を有する」。これは「教育を受ける権利」ではなく「学習の権利」とすべし。さすれば、それぞれの学習を保障するため様々な教育が認められることになる。「教育の機会均等」か「学習の機会均等」という話も出た。そうやって言葉を切り替えると、思わぬ内実が明らかになったりする。面白い。

■そのデンでいくと、「ゆとり教育」は「教育」で良かったんだろうか。「ゆとり学習」ではないのかな。教員の「ゆとり」と考えればこれでいいのか。質問するんだった。

■テーマについて5分で語ってしまったので、残りの時間は専ら、富山の小学校や、氏が教授を務める京都造形芸術大など、「学習」がうまく進んだ事例の紹介に充てられた。うまくいった話ばかりすれば、こういう質問が出るのも必然だろう。「やりたいことがあって『学習』に取り組めた人はいいけれど、やりたいことを見つけられない人はどうすればいいのでしょうか」。それに対する寺脇氏の回答。「未来を考えるのは学校の役割ではない。やりたいことは学校の外で見つけよう」。

■この回答は、「『学力』論議からこぼれるもの」というフォーラムの副題と図らずも重なっている。「やりたいこと」は「学力」の文脈からは出てこない、ということだ。なんでもかんでも学校に任せても解決しないこともある。書いてみると当たり前だが、そのくせ子供に関することはやたらに学校に被せられたりするわけで(もしくは親か)、大人と子供は同じ世界にいると思ってない人が結構いるってことだなと勝手に理解。

■フォーラムの前日、打ち合わせの途中でこんな話が出た。本番でも言うかと思ったら言わなかったので、ここに書いておく。「建物があって、教師がいて、子供が通ってくるというのは『教える側』に便利な仕組だが、『学ぶ側』に便利な仕組とは限らない」。「学ぶ側」に便利な仕組を保障する「教育」へ、というのはネットワークの提言と根を同じくする。

フリースクールへの理解は正直あるとは言えない。いや、フリースクール観の違いと言うべきか。寺脇氏の言う「フリースクール」は公教育と肩を並べた「オルタナティブ・スクール」だ(その意味では本来のフリースクールとも言える)。年額170万円はとれないよ。ただ、「学習」を支えるのが「教育」ならば、フリースクールも、何をどう支えているかより自覚することは必要だろう。