漂流日誌

札幌のNPO「訪問と居場所 漂流教室」のブログです。活動内容や教育関連の情報、スタッフの日常などを書いています。2002年より毎日更新

学校の感覚

■訪問先では高校の入学関係の書類を見せてもらった。定時制の書類だったのだが、託児の申し込みもあるんですね。なるほど。後、「校舎内外は禁煙です」とか自動車通学の申込書も。新鮮な感じだった。

■その訪問先で語ったこと。常々学校の人たちが不登校の子らに対して学校復帰を求めるのは当然だと思っているのだが、そう思う自分の感覚も、まだ彼らと違うんじゃないかと思った。彼らは学校という場が自分たちが作り上げているという感覚がすごく希薄なのではないか。ぼくからすると不登校は「学校に通う人−学校にいる人」の関係における事象なのだが、彼らからすると「人が学校で過ごすかどうか」ということ形でしか捉えることができないのではないだろうか。つまり、学校が人の作っているものであるということを全く忘れ、人の力が及ばない抗うことの出来ない存在として捉えているということだ。学校を舞台と捉えていると言ってもいいかもしれない。教師も生徒もその舞台に上がる役者なのだ。

■そう考えると、彼らは教えるものとして学校復帰を求めているのではなく、学校という場で共に生きる存在であろうとしているのではないだろうか。彼らにとってみれば、不登校の子が学校に来るのは「教え−教えられる関係の復活」というよりも「もう一度自分と同じ場で毎日を過ごす仲間の復活」という感覚なのではないか。

■これをもうちょっと拡大して考えると、「不登校の子供らに自然体験を」とか「学校に来れば関われるのだが、来ないから何も出来ない」という語りをまま聞くのも説明がつく。自然体験を重視するのは、「学校」を海や山と同じような、どんなにあがいても征服できないものと考えているのではないか。そして、その相同性から「自然に対峙してそこで自己と自然の折り合いの付け方を体験することで、同じく学校に行くことができるようになる」と考えているのではないだろうか。「来れば関われる」という言い方に潜むのは、学校という場を自分たちが作っているものだということをすっかり忘れて、自分も子供もそこで過ごす対等な存在であるという勘違いだろう。

■漂着教室では久しぶりにキャッチボール。その後、スタッフ研修。四月に入り、やってくる人が多くなっているな。