漂流日誌

札幌のNPO「訪問と居場所 漂流教室」のブログです。活動内容や教育関連の情報、スタッフの日常などを書いています。2002年より毎日更新

見ようとしないもの

■家事にて一日過ごす。

■昼、なじみのラーメン屋に行くと、これまで厨房でバイトしていた女の子がお客さんとして来ていたので少し話す。この春に就職が決まったからこれからは客になるんだそうだ。このラーメン屋は北海道に戻ってきたときに入った一軒目の店で、それから一年くらいしてからずっといた人だから、かれこれ4年ほどは働いていたのだろう。

■事務所に持っていくための書類の整理など、お部屋片づけに取りかかる。まだまだかかりそうだ。

■教え方の話。とあるADHDの中学生は、数学のテストがほとんどできない。学校からの課題もやるにはやるが間違いばかり。しかし、数学は好きなのだという。ある時、小学生向けのドリルを解いたのを見てみると、文章題と図形関連の問題は間違えているが、計算問題は7〜8割がた正解している。実際に解くところを横から見ていると、計算問題の時は分数の計算も楽にこなし、集中が結構続く。文章題になると集中が途切れやすいようだ。さて、これに気づいて最初は「文章題の前に一端自分でちょっと休憩を入れよう」として見たのだが、さして成果は上がらなかった。

■というところで、他の時に英文の書き換え練習の課題プリントをやっていた時のことを思い出した。英語もほとんどできないので、ぼくの書いた手本を左に置いて右のノートに写し書くという作業にしたのだが、最初はできなかったのだ。どうしても、課題プリントに書いてある元の英文を見て書いてしまったり、手本を見ても違う問題の解答を見たりしてしまう。そこで、手本を書いたノートを下敷きで隠す/問題文にナンバーがついていなかったのでナンバーをつける、と一文ずつに注目しやすいようにしたところ、できるようになった。

■そこで英語のことと数学のことを合わせ考えてみた。すると、文を読むという作業の時に、目で文を追っていくのが苦手なんじゃないか、あるいは、この部分はこの部分と対応するという一瞬の記憶を文で行うのが苦手なんじゃないか、と思えてきた。だとすれば、この子が数学をできるようにしていくには、文の読み方の練習(それも国語の学習的意味ではなく)が必要で、数学の範疇ではない。そもそも、計算自体はむしろ小学校時代のぼくよりできている。ということで、今後は文章題よりもまず中学校レベルの計算問題(正負が入ったとき、文字式など)を得意にして、今よりテストを解けるようにしよう、文章題はその後にじっくり練習しよう、と子供と決めている。

■ちなみに、小学校の時は先生がつきっきりでこの子の算数を見ていたらしい。ずいぶん厳しくやってもらった、とお母さんは話していたが、集中するのが苦手な子に、分数の計算まできちんとこなせるように指導するとは、この先生ただものではないと思う。しかし、中学校に入ると、この子にあった形の学習は一切行われなくなった。結果、この子なりに一生懸命授業についていこうとして、数学の知識がまだらになってしまっている。中一の最初に学ぶはずの文字式の初歩(×の記号省略、÷は分数に変換するなど)を覚えていない反面、一次方程式で移項すると符号が変わることや、未知数のある項を左辺にまとめることなどはなんとなくわかっている。数の概念把握に難があるとかではなく、約分・通分を含む分数の四則演算までできている子だから、じっくりやっていけばできる能力はあるはずだ。この子に欠けているのは、全くもって周囲の援助だろう。

■この子の持っている特性を学校の先生が観察する余裕は一斉授業の中では多分ないだろう。しかし、それはこの子の学習を置いてけぼりにする免罪符にはならない。この子の学校では百マス計算や毎回の授業での課題を出すことで学力向上を図っている。確かにそういうことで伸びる子はいる。でも、そうでない子は?学校の先生ができませんというなら、その隙にぼくがやっちゃってみよう。ヒマだからな(ウエケン)。

■結局漂流教室を始めた時と同じようなことが、発達障害の子供たちについてもあるのだなぁ。学校が、組織が、社会が、見ようとしないものを見よう。彼らは育っている。