漂流日誌

札幌のNPO「訪問と居場所 漂流教室」のブログです。活動内容や教育関連の情報、スタッフの日常などを書いています。2002年より毎日更新

タイトル忘れた

■そう。野球が好きだ。しかし、こんなに夢中になっているのはここ数年のことなので、相馬氏にとってはぼくの姿になじみがないのだろう。

■LD体験プログラム、いいですね。是非うけてみたい。あと、今日の道新に載っていた、ウェブを使ったカウンセリングの講習はどうですか?相馬くん。

■延々と続いている「わかる/わからない」の話。振り返ってもう一度見てみたのだが、まずどあたまのしのさんのコメントをもっと読むべきだった。
5/31あんみつさんのブログでのしのさんのコメント

パソコンの場合は入力−出力の「入力」部分だけを教えればいいのでポイントがズレない、という事が関係していると思います。
一方、教科学習などは入力から出力への「過程」の部分を伝えなければならないことが多いので、教える・教えられる双方にとって負担が大きいのだと思います。

パソコンサポートの電話でしていることは、ぼくの中では「教える」ことではない。これはどこのキーを何回どう押せばよいかを「伝える」ということだ。パソコンの場合は、どこのキーをどう押せばどうなるかは決まっているから、現象を聞き取ってそれを分析することで相手の困っていることは解決できる。例えるなら、地図で三重県の位置がわからない人がいたとして自分と同じ地図を持っているなら、何ページを開いて地図のどのポイントかを「Aの4です」と伝えれば、皆見つけられるということだ。

ぼくの中での「教える」ということは、「何かを自分でできるようにしたいという人を観察して、自分のやり方を見せる」ことだ。この「何か」の部分がどこまでかによって、相手への視線・見せ方が変わる。数学・パソコン・体育なんでもいいのだが、ぼくがやっているのと同じ方法を自分も身につけたいというなら、相手のやり方よりもむしろ自分への視線が重要になってくる。相手のやり方の中で、自分と違うところを指摘して見せてやることになる。しかし、相手が自分のやり方を構築したいのなら、ぼくのやり方は一例でしかない。ぼくのやり方を相手がその人なりに解釈することが重要なわけだ。「教える」ことは地図と違って、各々の頭の中に正解を決定する回路があるから、それを見せてもらうこと無しには成り立たない。

その後の日誌の中で、今度は「国語・算数・理科・社会・英語と言った教科学習での知識習得とスポーツ・絵画・音楽といった身体を使う行動での知識習得の相同点」についての話が始まる。これについては次回。