漂流日誌

札幌のNPO「訪問と居場所 漂流教室」のブログです。活動内容や教育関連の情報、スタッフの日常などを書いています。2002年より毎日更新

どどんがどん

■午前中からセンターに行って通信を作ろうと思ったが、おねぼうさん。昼前になり到着。通信を作成しつつ、相馬氏と訪問先の情報交換。作成途中で新規の訪問先に行く。終了後、センターに戻り、印刷済みの通信をゲットして、寺沢くんの送迎。

■ということで、二件本日から新規の訪問が始まった。ゆっくりしっかり見ていこう。

■寺沢くんは終了後にとある小学校で行われる和太鼓の練習にでかけた。どんなものか報告を聞いてみて、面白そうならイベントにつなげたいなぁ。

■本日よりよさこいソーラン祭り。まだ音は聞こえない。良きかな。

■「国語・算数・理科・社会・英語と言った教科学習での知識習得とスポーツ・絵画・音楽といった身体を使う行動での知識習得の相同点」の話。ぼくはこの二つとも、「教える」時に似通った感覚を使えると思っているのだが、これについてのしのさんのコメント

いやぁ〜どうなのだろう。教科学習の習得と身体的な運動(スポーツ)のそれとは違う気がします。同じ部分もあるのでしょうが、「出来ない」人がなぜ「出来ない」か、その運動(スポーツ)に長けている人が見ればすぐにわかることが多いという点が決定的に違う。

ぼくにはどうもここがピンとこない。

自分の感覚では、自分が得意であることほど教えづらい(この「教える」は前回の日誌で定義したほう)。

塾講師を始めたばかりの頃、英語と国語を教えることになった。どちらかというと国語の方が得意だったので、「国語なら楽勝だ」と思っていた。しかし、「国語がわからない」という生徒に対した時に自分が感じたのは、「この子が『わからない』と言っていることがわからない」ということだった。対して英語は、「わからない」と言われた時に、「あ、ここでひっかかっている」と見つけることができた。これは何年も経ってようやく国語が英語並に教えられるようになるくらい、自分の中で根付いていたことだった。つまり、自分が意識的に練習してできるようになったことほど、できない人に教えることがやりやすいのではないだろうか。

身体を使う行動でも、自分が最近バットを振る練習やキャッチボールをしたおかげで子供に教えることが少しできている感がある。自分でできるように練習をしている中でつかんだことについては、細かいところまで見ることができる(と思っている)。もし、これが小さい頃から運動神経抜群で知らずに身に付いた体の動きなら、言語化するのにまたかなりの時間を要することだろう。

教科学習での知識習得も身体的能力の知識習得も、どちらも教える際には自分が無意識にやっていることの言語化という点は同じであり、それは教える側が身につけてきた方法が意識的であればあるだけ言語化しやすいのではないだろうか。しのさんは、きっと運動することが好きで得意だと思うが、そこに至るまでにずいぶんと練習したのではないだろうかと想像するが、いかがか。