■ということで、相馬氏の日誌も終わったので斎藤環氏の基調講演について。この講演、文部科学省にとっては冷や水を浴びせかけられるようなものであったろう。なにせ、話すことが逐一今後の不登校対策の目玉となっていることの見直しを迫るような内容であったからだ。
■まず、最近注目していることとして述べたのが、最近二年間の不登校数減少について。統計の不確かさもさることながら、小・中の児童生徒だけでなく高校生以上も射程に入れた方がいいのではないかということを話していた。小学生で二万人の不登校児童が中学生になると十万人になるということを考えると中学生以上の問題という視点が必要ではないか、また、高校生以上は不登校の問題が前景化しにくくなるのではないか、という話だった。
■ついで、不登校の歴史について語られた。ここでは80年代前半までは「登校拒否」が入院対象だったことは記憶しておくべきことであるとの話があった。これには親と医者が同意すれば子供を入院させることのできる「同意入院」という制度があったことが背景にあり、入院するくらいなら学校に行くという選択肢を取る子供がいたという点では「治療」の成果があったという。もちろん現在では不登校という病名で入院させられるようなことは無いのだが、専門家として病院を紹介されることは以前として多いのであり、にも関わらず、思春期・青年期専門の精神科医は今でも非常に少ない。
■不登校の対応においては、精神科の敷居をくぐることで失われてしまうものが少なからずある。特に、ローティーンや小さい子供の場合は、「自分は病気である」と自己規定してしまうことがあり、これはその後の成長にとって有害である。「早期発見・早期治療」「早い段階で見つけ専門家に任せる」という言葉は病気であれば有効だが、不登校は病気でないのだから、年齢が低いほど医者の関与は慎重にするべきだという話があった。
■そして、不登校の分類は先入観を作るので対応において邪魔になることが多いということが話された。斎藤氏は精神科医なので、その立場からは診断的な視点を必要とするとのことであったが、一般的に対応する場合には邪魔になるだけであるということだった。これはぼくも実感としてわかった。子供たちと会い過ごしていく中で、一人一人の不登校の姿は大変異なるし、年月を重ねる中でその様子は最初のところから変化してもいく。なぜ「不登校フォーラム」に精神科医が基調講演に来なくてはならないのかということに、斎藤氏は危惧を抱いていた。
■発達障害・神経症状などのある不登校といじめによる不登校の差についても語られた。最近の話題でいうと、寝屋川の事件の少年は「いじめがあった」と警察に語り、警察は「いじめはなかった」と語っている。これはとりもなおさず、いじめの全体像が被害者の視点だとまったく違ってみえるということの証左であり、上手ないじめは透明化するということの例であるかもしれない。発達障害などによる不登校では、対応する側による最初の受け止めが子供の内面に触れることにより全く違ったものになることが多いので先入観に注意することが必要だが、いじめによる不登校の場合は逆に「いじめにあったのだ」という前提で子供を理解した方がいいくらいであるという。
■「不登校の子供に登校刺激は与えないように」という対応も、子供を弱いものとして見ているのではないか/教師が子供と関わらない口実になっているのではないかという恐れがあるとのことだった。まず子供とコミュニケーションをきちんととることが必要であり、不登校への一般的理解はその入り口に過ぎない。実際は当事者の抱える問題に関わるほど、「不登校」という問題はどうでもよくなっていくものであるという。これもぼくは実感を伴って理解することができた。
■最後に近くなり、社会・世間の偏見を伴った批判的視点についての話になった。「不登校」「スチューデントアパシー」「オタク」「ひきこもり」「ニート」などなど「今どきの若者」を語る言葉は時代によっていくつも出てきているのだが、これらは皆若者の持っている非社会的(※反社会的ではないことに注意)傾向への反発である。しかし、若者の持っているこの傾向は今後の社会の可変性の幅でもあり、この否定を行うことは社会の柔軟性を失うことになりかねない。思春期・青年期の人が抱える問題は、社会の問題を反映していることが多いことを意識しておくべきだという話で基調講演は終わりになった。
■果たして参加者の大勢を占める教育委員会の方々がこの話しを聞いてどのような印象を持ったのか、そして各自治体での不登校対策に少しでも反映されることがあるのか興味深い基調講演だった。