漂流日誌

札幌のNPO「訪問と居場所 漂流教室」のブログです。活動内容や教育関連の情報、スタッフの日常などを書いています。2002年より毎日更新

ラストシンタ

■道内で若者支援に関わっている人たちが集い、実践報告・交流を行う「シンタの集い」が余市教育福祉村で行われるのに参加。今年で10回目になった集いだが、今回で終わりにするとのこと。始まりの挨拶で主催の平野さんが話していた「始めるのも難しいが終わらせるのはもっと難しい」という言葉は真理だな。

■実践報告では昨年の胆振地震の後に安平町の小学生が行った「8000人の笑顔プロジェクト」を支えた担任の話しと、園芸療法について専門家の報告があった。安平の先生の話しは不覚にも涙が出そうになるのを堪えていたよ。子供が頑張る姿にはグッとくるよね。園芸療法の解説は聞いていて、人間の活動はほとんどのものが療法として使える可能性があるのではないか、と感じた。最近漂着教室でやってないけど、麻雀療法もありえるぞ。

■夕方には余市のワイナリー見学をして、夜はBBQ。星がすごく綺麗でいいなあと眺めていると、猟師をしているという人が夜空の星に向けてレーザーポインターを発射して星座解説を始めてくれた。超高性能なポインターで海外通販でないと手に入らないという代物、星までまっすぐに光線が届いていた。天然プラネタリウムを長らく楽しませてもらってから就寝。

■明けて、日曜日には北星学園余市高校余市紅志高校の先生がそれぞれ、放送局と演劇部の活動を紹介してくれた。子供若者が成長する場である学校という理想像を実践しているのは素晴らしかった。と書いている今になって思い返すと、日々の授業でそれを行うことはどうやったらできるのだろうか、と思う。話の中でも、テスト前でも課外活動に生き生きと積極的に向かう生徒に対して「テストの勉強は大丈夫なの?」と尋ねるエピソードが出てきた。いわゆる一般的な「学習」は子供が積極的に向かうことは無いような、つまらないものということが何となく自分たちの前提としてありはしないか。

■集いが終わってから、軽くサンデースクールに顔を出し、温泉に入って帰宅。温泉で見た青空がとても綺麗だったよ。(月曜日)

明るい不登校

■血を吐きつつも本は買った。『明るい不登校: 創造性は「学校」外でひらく (NHK出版新書)』。

■2018年の文科省の報告によれば不登校の児童生徒は全国に14万4000人。前年から1万人増で20年ぶりの伸びを見せている。一方、行政の不登校対策は一貫して「学校復帰」を目指す。しかし、不登校は子供の、もしくは家庭の問題なのだろうか。学校という制度と子供とのミスマッチととらえるべきではないだろうか。義務教育の「義務」は子供に課せられた義務ではない。子供が持つのは「教育を受ける権利」であり、大人がその権利を保障する義務を負う。自分にあった学びの場があれば、子供たちは元気を取り戻す。従来のように学校教育一本でいくのではなく、子供にあわせたさまざまな学び場を用意するのが望ましい。最近になってようやく「多様な学びの場」を認める土壌が生まれた。各地のフリースクールシュタイナー教育、インターナショナルスクール、ホームエデュケーション、教育課程特別校などにその萌芽が見られる。と、大きくまとめればこのような内容。「子ども主体の教育」の内容と進路については、東京シューレ葛飾シューレ中学にそれぞれ一章ずつ割いている。あとは不登校Q&A。

■タイトルの由来は「はじめに」で述べられている。奥地さん自身、子供が学校へ行かなくなった時期はいわば「トンネルの中の日々」であり「真っ暗」な状態だったという。だが、フリースクールで明るくなっていく子を何人も見て、不登校がネガティブに映るのは学校中心の価値観にとらわれた親の思い込みでしかないと気づく。学校が合わない子にとっては、そこから離れることが明るくなる第一歩であり、学校以外の「多様な学びの場」があると知れば本当に明るくなる。

子ども達の将来の可能性が不登校を通じて生まれ、それらが豊かに花開いている事実をふまえ、従来のネガティブなイメージではなく、実態を反映すると思われる「明るい」という言葉を、不登校と組み合わせることにしたのです(p.4)

■2ページ程度の文なのだが、わかりづらくて何度か読み返した。フリースクール、フリースペースで子供らがぐいぐいと明るくなっていく様子は俺も見ている。そういうことはあるだろう。でも、それって「明るい」「不登校」なんだろうか。「明るいフリースクール生活」が妥当、あるいは「明るい登校」「明るい学校生活」、せいぜい「明るい学びの場」だろう。

■その「明るい」だが本文中に、

「明るい不登校」とは「不登校とは明るいものでなければならない」とか「暗くあってはならない」という規範的な意味で言っているわけではありません(p.4-5)

と断りがある。「明るい」のは実態で、価値観ではないというわけだ。だが、「トンネルの中」だった奥地さんが考えをあらためたのは「明るくなった」子供たちを見たからだ。ここでは「明るくなる」ことは正の変化として示されている。子供が明るいからこそ、親の悩みも「思い込み」として処理できる。なにより「ここへ来て、明るくなれました」という子供のせりふを「自己肯定の言葉」と書いておいて、「暗くあってはならないという意味ではない」と言っても、それはさすがに通らない。

■ここの構造はちょっと変わっていて、暗かったのは保護者(奥地さん)なのに、「明るくなった」のはフリースクールに来ている子供、そして「自己肯定」するのも子供となっている。いきなり対象がずれるせいで文章がわかりづらい。

■多様な子供たちをひとつの教育制度でまかなおうとすることにそもそもの問題がある。これは制度の不備であり、個々にあった学びの場を選べれば、子供たちは元気にそこに通う。「未来の学校」にも通じる理屈だが、これ自体は地域差などの課題はありつつも理解できる。だが、この理屈を不登校に結びつけると、とたんにおかしくなる。「学校に行きたくない」と「多様な教育のどれかを選ぶ」は一直線につながってはいない、「休み」が「学び」の文脈で回収されると何度も書いた。

■親と子のずれ。「休み」と「学び」のねじれ。これらはそのまま教育機会確保法や個別学習計画案に引き継がれている。もしかすると奥地さんは、親としての葛藤を、フリースクールを始めることで解決したのかもしれない。だから、不登校が学校以外の学びにダイレクトにつながってしまうのではないか。読み終えてそんな想像をした。

(あと、ほんとくだらないんだけど、副題の「創造性は『学校』外でひらく」に「圭子の夢は夜ひらく」を思い出したり。奥地さんも圭子だしさ。15、16、17と私の人生暗かった、だしさ)

それは年月も経つ

■こんにちは、ボラスタ高橋です。つい先日、youtubeにとある動画がアップされまして、それを見て大変感銘を受けました。ビートマニアに収録されている「ピアノ協奏曲第一番”蠍火”」という曲のピアノソロアレンジだったんですが、まーめちゃくちゃ上手で素晴らしい演奏だったんです。

蠍火という曲は、ビートマニアという音ゲーに収録されているピアノコンチェルトの楽曲なんですが、そもそもビートマニアってクラブミュージックが収録曲の中心で、オーケストラ曲が入るなんて異例中の異例なわけです。しかもそれがボス曲で難易度もめちゃくちゃ難しい楽曲だったので、当時ビートマニア界隈でとても話題になりました。また、楽曲が動画サイトにアップロードされると、音ゲーに詳しくない人たちも楽曲を聞いてそのクオリティに驚いて、音ゲー曲のわりにそれなりに有名になった曲です。

■そういう流れもあって、「蠍火 弾いてみた」動画が一時期かなり上がっていました。ただ、蠍火は大変難しい曲で、人が実際に弾くことを想定されていない譜面でした。(音はすべて打ち込みで製作したそう)なので、聞くととても上手で素晴らしい演奏でも(へたくそ)(全然うまくない)(これ素人でしょ?プロが弾いた方が何倍もうまい)などといったコメントが後を立たない状況でした。

■そんななか、蠍火弾いてみたブームから何年か経ったのち、高校生が「蠍火弾いてみた」動画をアップロードしていました。その演奏は他の人に比べて正確に弾いていて、かなり上手に思えたのですが、その動画にも(ピアノのプロなめんな もっとうまく弾けるわ)みたいなコメントが流れていました。

■月日は流れ、今年の8月。蠍火弾いてみたブームなんてとうのとっくに過ぎ去ったこのご時世にまた「蠍火弾いてみた」動画が上がっていました。その人は6年前に「蠍火弾いてみた」動画を出したものの、そのときの自分は高校生でまだスキルもなく、自分でも納得できる演奏ではなかったと書いてあります。そして、現在はCDを発売し、プロになってもう一度蠍火を演奏したのだそうです。

■高校生の時の演奏もすごい上手だったんですけど、今回の演奏はなんか雰囲気が違うというか、気合に入りようが違うように見えました。「その曲が好きっていうことだけでここまで向き合ってずっと練習して形にするってすごいなって思います。なんか久しぶりに熱い人の熱い気持ちを見た気がしました。

■そんな話です。おしまい

喋りすぎた

■育休が明けて、早2か月。長い間お休みにしていた訪問も再開したわけですが、無意識に私の中で会えなかった期間を埋めようと躍起になっていたようです。

■というのも訪問中の私、喋りすぎ。帰宅途中ふとさっきの訪問を振り返ると、ほとんど私から会話をふっていました。訪問先の子がたまにする話は、いままでしていた話とはなんの脈拍のないもので、いままでしていた話というのは私が勝手にした話なわけだから、訪問先の子がしたかった話を私がさせていなかったことになります。私が勝手にしゃべっている合間を見計らって今日の訪問でしたかった話をさせていたなんて、何それ訪問スタッフ失格じゃん。

■と、ここまで帰宅途中の運転中に考えて落ち込みましたが、訪問スタッフに失格も合格もないし、あるとしても決めるのは私じゃなくてその子だと気を持ち直しました。危ない危ない。ただ、無意識に育休の間ずっと待っていてくれた訪問先の子たちと、これまで以上に楽しい訪問をしたい! と勝手に一人で前のめりになっていた部分はあったのだと自覚しました。復帰したての時期に日誌に「またのんびり関係をつくっていきたいです」なんて書いといてこのありさまです。

■あせって関係を作ろうとすると、相手もそれに便乗するか、一歩引いてしまうかのどちらかだと思います。便乗してしまうと、自分のペースじゃないから疲れてしまいます。一歩引いてしまうと、その一歩の差はいつまでもいつまでも揃わない。また、訪問先とスタッフという関係差も考慮しなくちゃいけない。スタッフのペースをその子に押し付けてはいけない。久しぶりの訪問だろうが新しくはじまる訪問だろうがそれは同じこと。頭では分かっていても、行動に移せないよくあるやつです。

■また新しく訪問が始まるので、昔の失敗と合わせて忘れないように書き溜めておこうと思いました。ただ一人で考えても日々の生活やら休みボケやらなんだで限界があるので、またお久しぶりスタッフミーティングを開きます。皆は平日と土日の日中なら、どこが都合いいですか。

映画鑑賞

■皆さんこんにちはボラスタの山川です。寒くなってきましたねこのくらいの気温が好きです。

■最近友達と映画を一緒に観るようになりました。僕の他に2人いて3人で観たい映画を2つ挙げて乱数メーカーで観る映画を決めてみています。ここ2.3週間4本くらい観てます。ほとんど洋画ですけど、それに肖り僕も最近1人で映画を観るようになりました。邦画から徐々に洋画を観てますね。最近は「あゝ荒野」っていうボクシング映画と「溺れるナイフ」っていう青春映画を観ました。どちらも主演が菅田将暉。あの人は本当に俳優さんなんだけど、演技が鋭く、細かい演技まで出来る素晴らしい俳優さんなんだなと思います。今はエクソシストを見ています。急なホラー映画

■なのでなんかこういうジャンルの映画が観たいとかがあれば答えれる範囲内でいい映画チョイスしますよ。最終的にはホラーに着陸するかも。[結論:シャイニングを観ると言いてはや3ヶ月、俺早く観れば?]ではまた。

料理会

■月一回くらい、人を呼んで料理を作って食べる集まりをなんとなく続けている。今回は夜回りで知り合った人と、人参食べる会をした。酒も飲んでかなり盛り上がった。作ったものは、・人参とトウキビと鶏肉のスープ・人参の細切りとちくわと卵の炒め物・空心菜の炒め物・ちくわのキュウリ詰め。ほんとはもっと作ろうと思ったけど、こんなとこでお終いになったのは酒のせい。

■それにしても、こういう人との繋がりを持つことが中高年以降の孤立を防ぐということなのだろうか。それはつまり、みんなとワイワイやれる楽しい生活を送るということなのか。そういうことをするのはパワーが必要だし、いつでもできるわけじゃないんだよな、もっと省エネルギーな付き合い方も必要だよな、と残った片づけものを見ながら考えていたのであった。(木曜日)

また負けた

■「隙あらば後志」って前にも見た気がして、気になって検索してみたら、二年前の山田の日誌でタイトルに使っていた。

■俺は俺でふたたひ芸術の森の謎解きイベントに挑み、またしても解けなかった。ハードコースが本当にハード。歯が立たない。でも50組は解いてるんだよな。悔しいな。来年もまたチャレンジしたい。