■こんにちは、ボラスタ高橋です。最近m漂流日誌を見る機会が減ってきていて、「次の日誌、高橋くんの番だよ!」とメールをいただいたときに、はっとして日誌を見ることが多くなりました。最近は「不登校の心配のある生徒の保護者交流会」についての話題が多かったんですね。自分もちょっと気になることがあって、思ったことを書こうと思います。
■自分は高校生のころ不登校でした。この頃の自分の気持ちは「学校という毎日行って当然の場所なのに、何か理由をつけて行かないことを選んでいるのが苦しい」
といった感じです。学校に行かない理由は、勉強ができなかったり、クラスメートと馴染めなかったりとそういった理由でしたが、それでも学校にはいくもんだろ、という考えが頭にありつづけて、葛藤するのが苦しいような、そんな記憶があります。「学校に行こうと思っているけれど、いけない」に近い気がしました。
■ところで、自分の実感として不登校の人でそういう理由の人は減ってきたのでは、と思っています。なんの根拠もなかったのですが、「不登校50年証言プロジェクト」の滝川さんの回を読んで納得しました。なんとも言えない学校の尊さみたいな部分を「聖性」と表現していますが、確かにそういうことかもしれない。
■そしてその聖性が失われてきているというのも分かります。実際うちの街は農業高校や情報コミュニケーション学科がある高校の倍率が高いようで、普通高校の普通科は定員割れしているそうです。三笠高校の調理師・製菓コースも倍率が高いですよね。具体的なスキルが身につく学校にいきたいと思う人が増えているのも、消費社会・個人社会の最中にある当然の流れなのかもしれません。
■なんてことを思った話です。「不登校50年証言プロジェクト」は結構読み応えがあって繰り返し見ていたりします。特に、稲村博さんの件を当時関わりのあった方に尋ねていて、こうやって残しているというのはすごいと思います。