漂流日誌

札幌のNPO「訪問と居場所 漂流教室」のブログです。活動内容や教育関連の情報、スタッフの日常などを書いています。2002年より毎日更新

フロントランナー

■雪です。天気予報は大荒れの予想で、80センチ積もるかも、停電するかもとさんざん脅かされたのですが、いまのところは落ち着いている。昨日は札幌ドームで嵐のコンサートがあって、「嵐vs嵐」なんて話にもなってたんだけど。それよりタイヤを交換していません。明日の訪問は地下鉄かな。多分、どこかで換えるチャンスはあるはず。このまま根雪になることはあるまい。

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■さてさて、あいかわらず「生きづらさ」について考えている。そもそもがよくわからない。他人と自分、社会と自分との齟齬や違和感のことだとすれば、「生きづらさ」より「ピンと来ない」という表現が近い、というのが11月1日に書いた内容。「ピンと来ない」ので、なんだかよくわかんないなと思いながらつかず離れずで放置してある。ときどき手にとって眺めて、なるほどと納得して手持ちに加えることもある。要は理解が遅い。
hyouryu.hatenablog.jp

■足りないもの、至らないもの、反対に過剰なものなど自分のなかにもいろいろある。おそらくこれらも理解の遅さに助けられている。なんだかわかんないものは、なんだかわかんないのだ。急かされたって怒られたってどうしようもない。そのせいでイライラすることもあるのだけど、イライラする理由も「ピンと来ない」ので、なんでだろうと考えているか、しょうがないからそのままにしておく。

■と、おおかた他人もこんな感じなんだろうと思っていたが、もしかすると「ピンと来すぎる」人というのもいるのかもしれないと前回の日誌を書いたあと気づいた。ピンと来すぎるので、ほかの人が気にならないこと、問題に思わないことがひっかかる。ひっかかったはいいが、そもそも見える人が少ないので名前がない。なんだかわからないものとして扱わざるを得ない。

■少々乱暴な仮説になる。「生きづらさ」や「自己肯定感」のようなあいまいな名前が生まれるのがずっと不思議だった。そんなものに自分をあてはめるから窮屈になるんじゃないかと思っていた。でも、もしかしたら「ピンと来すぎる」人たちが、誰も気づいていない「それ」をどう呼ぼうかと、とにかく名前をつけたのかもしれない。言葉や名前は身を守る鎧にもなる。身ひとつで立ち向かうのはつらい。

■フロントランナーの生んだ言葉が遅れて世間に届き、さらに遅れて俺みたいな「ピンと来ない」人が拾って、自分にあうかあわないか吟味している。そんな図式を想像した。(世間で広まった言葉が『逆流』してフロントランナーを規定するケースもありそうだけど、面倒なので今回は無視する)

■そういう意味じゃ俺のような「ピンと来ない」人は、まわりと歩調をあわせることさえ諦めてしまえば、あとは楽だ。手がかりは前にいっぱい落ちている。前行く人が見落としたものもあるかもしれない。少々道を外れたって、だいたい先人はいる。でも「ピンと来すぎる」人は大変かもね。相談しようにも説明しようにも、誰も追いついてないんだから。この先がどうなるか、手探りで進むしかない。当然、危険度は高い。

■俺は、失敗談やダメな人の存在が大事だと思っているのだけど、あれも、どちらかといえば「ピンと来ない」人の話が多い気がする。落語だったり寅さんだったり、水木しげるのエピソードもそう。「ピンと来すぎる」話は追い詰められそうな気配がある。中島らもがダメ話のようでつらいのは、そのあたりに理由があるんじゃないか。俺にとって太宰治がよくわからないのもそのせいかな。まあ、実際にはそうきれいには割れない、ひとりの人に両面ともあるんだろうけど。

■そして、見知らぬ世界を手探りで進んでいる点では、子供もおなじだ。まだ出くわすものの名前を知らず、我が身に湧く感覚をあらわす言葉を持たず、世界と対峙する。子供から大人へ、「成長」という観点で見ると、つい彼らは自分のうしろにいる気がしてしまうけど、もしかしたら先にいるのかもしれない。フロントランナーへの敬意が足りてなかったかもしれないね。