漂流日誌

札幌のNPO「訪問と居場所 漂流教室」のブログです。活動内容や教育関連の情報、スタッフの日常などを書いています。2002年より毎日更新

名づけはゆっくり

■なにかに憑りつかれているらしい茂木家には、うちにある梵字が刻まれたお守り(?)をあげましょう。引っ越してきたときに一個見つけて、前の住人の忘れものかとほうっておいたら、このあいだ二個目が現れた。茂木さんにあげなさいってことだと思う。きっとそう。

■山田の書いていた「生きづらさ」について。前にも書いた気がするけど「生きづらさ」というのが俺にはよくわからない。「生きにくさ」はまだ少しわかる気もする。もしかすると単純に耳慣れた言葉かそうじゃないかの違いかもしれない。言葉の役割は大きい。

■世の中と自分との違和感ということなら、しっくりくるのは「ピンとこない」だ。まわりの言っていること、やっていることと、自分がよかれと思うことと、ずれがあって「ピンとこない」。××が素晴らしいと言われても、俺にはそう思えないので「ピンとこない」。ピンとこないのに無理やり周囲に合わせなくてはならないのは大変だろうが、さいわいそういうことはなかった。ピンとこないなと思って、なんでだろうと考えているだけだ。

■お金がないときは大変だった。借金して首が回らなくなって途方に暮れた。無職で肩身が狭かった。でも生きづらくはなかったな。それはお前が恵まれているからだと言われてしまえばそれまでだけど。

■そういえば、20代半ばから後半にかけて、酔うとやけに粗暴になっていた時期があった。飲んで帰って朝起きるとすねが傷だらけになっている。聞けば、街路樹にずっとローキックを浴びせていたらしい。言葉にならない鬱憤がたまって、それを立ち木にぶつけていたんだろう。

■もしやあの鬱屈を人は「生きづらさ」と呼ぶのだろうか。だとしたら少々めんどうくさそうだ。自分と世間との齟齬、身の置きどころのなさに悩んでいるのに、それに名前を与えてしまったら、その名前と自分の感覚のあいだにまた齟齬が生まれないか。わかんないものはわかんないまま放置しておいた方がいい場合もある。そのうち納得できる名前を思いつくかもしれないし。それまでは街路樹でも蹴っていれば、そのうちすねが鍛えられて、ムエタイに出られるかもしれないよ。(関係ないけど『むえたい』を変換したら『無得体』になって、微妙に文章と合っているようなそうじゃないような)

■と、ここまで書いてなんだけど「さ」に引っかかっているのかもしれない。これが「生きづらい世の中」なら、そんなに気にならない。「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい」わけだし。それが「生きづらさ」になると、自分に課題があるように読めないですか。自分のなかのなにかが生きづらくさせているのだと。それで俺も鬱屈の話をしたのだろう。どうなんだろうか。生きづらい理由は内側にあるのかな。外側なんじゃない。ということで今日から11月。