漂流日誌

札幌のNPO「訪問と居場所 漂流教室」のブログです。活動内容や教育関連の情報、スタッフの日常などを書いています。2002年より毎日更新

手はどこまでも届くはず(2)

■こんにちは、ボランティアスタッフの高橋ですまた同じ小説のとある一部のことを思い出しました。抜粋します。

(前略)そして、前を見たまま言う。
「僕達は所詮、高校生だ。学校の外には手を伸ばせない。ホータロー、最初から、どうしようもなかったんだよ」
そうなのだろうか。
実感としては、里志の言うことは間違っていない。中学生の頃は鏑矢中学が俺の見えるすべてだった。高校生の今は神山高校の外には関われない。
だが、本当にそうなのだろうか。何事もなく順調に学校生活を送るなら、俺たちは二年後には神谷高校を後にする。進学したとして、これも順調なら六年後には学校という場所から出ることになる。もしそれまで学校の外には手が伸びないと思いつづけていたら、いきなり荒野に放り出されて途方に暮れてしまうだろう。
多分違うのだ、千反田がさまざまな社交をこなすように、姉貴が世界中を旅するように、手はどこまでも伸びるはず。問題はそうしようと思う意志があるかどうか。
省エネルギーを主義として掲げる俺には、もちろんそんな意志はなかった。けれどいま、胸の底に澱のような気持ちが淀んでいる。
(中略)
だがもしかして、「余計なお世話だから関わらない方がいい」ではなく、「外の問題は面倒だから関わりたくない」と思っているのではないか?実際に何かできるかどうかはともかく、心情において、俺は今大日向を見捨ててきたのではないか?

■とある事柄に対して、それは「外の問題」なのかどうか、そして「外の問題」だとして、そこに手を伸ばす意志を持てるかどうか。また、それに対して「部外者だから首を突っ込まない方がいい」なのか、「面倒だから関わりたくない」なのか。

■昨日の日誌は、自分の行いはどのタイミングで振り返るのだろうという話。確かにその人の行いはその人のもの。それでも、その人ではない「私」はその行いを見て苦しいのではないかと勘ぐってしまう。その瞬間「じゃあそう思ったなら私はどうしたいのか」を考えざるを得ません。自分はね。

■でも結局答えらしい答えがないまま時間が過ぎて、風化して終わるのです。どこかでそれを待っているのかも。いやらしいことです。自分には明確な役割が存在していると錯覚しているのかもしれません。でもそんなの関係なく、手を伸ばせる人は伸ばせる。自分は何者なのか、ではなく何者であるべきなのかで悩んでいて、それがしょうもないことも分かっているつもりなのですが、見ていると苦しいんです。

■さて、目の前の仕事に戻ります。今悩む時間が多かったから、悩まず過ごせる時間も多いはず。