■ひさしぶりに朝から晴れた。遠く手稲山の山頂は白く薄化粧している。雪の季節が近い。
■一昨日、北大の教育学部に呼ばれて「多様な教育」について話しをしてきた。昨年、教育機会確保法が施行されてから、公的には学校復帰が強まっている。一方で企業の参入が激しい。フリースクールは都市部にしかない。誰でも利用できるわけではない。だとしたら資本の力で学習の機会が全国に広まるのは悪いことではないかもしれない。
■しかし、その「選択肢」は誰でも選べるのだろうか。「プログレッシブスクール」を謳うN中等部は月額7万円ほどの利用料がかかり、別途Macbookも買わねばならない。そもそも不登校は学校から「距離を置く」ものではなかったか。あつらえた学習教材を利用すれば学校に出席した扱いにするというのは、学校の領域を広げただけにならないか。
■「学校」にはいろいろな要素がある。あちこちにフックがあるから、多くの子供が引っかかっていられる。それを「学習」と「社会性」にシェイプしてしまえば、そぐわない子は落ちるだろう。その先にさらに「学習」を持ってこられてもサポートになるとは思えない。自覚的な子供、勉強さえしていればあとは自分の自由にできると制度を利用できる子以外は、よけい追いつめるおそれがある。
■自覚的、戦略的な子供を増やすというのもひとつの手。そして「学習」や「社会性」以外の要素をもって子供に接するのがもうひとつの手。フリースクールのしてきたことは後者だったはずだ。さまざまな学校を認めさせ、教育制度を複線化する。その考えに異論はないが、到達までの道のりに「企業による公教育の領域拡大」は織り込まれていたのか。この日誌でも何度も言っているが、「拒否」が「選択」に、「休養」が「学習」に回収されてしまう現状は「多様性」からは遠い。
■さりとて打開する名案もなく、困惑をそのまま伝えるような講義になったが、学生は予想以上こちらの意図を汲んでくれた。もらった感想を前に、「感想の感想」を書こうとしているところ。