漂流日誌

札幌のNPO「訪問と居場所 漂流教室」のブログです。活動内容や教育関連の情報、スタッフの日常などを書いています。2002年より毎日更新

折るつもりで話す

橋本治内田樹の対談に「議論は意味がない」みたいな話があったような気がする。意見の違うもの同士をぶつけて否定以外になにか生まれるのか、という。で、どんな話でも「そうだよね」から始めないと、という言葉に、真心ブラザーズファンの俺は「答えは勿論Yes!」と思ったのでした。ミサイルはループスライダー僕らをSHAKEしてくれ。

■議論でも対話でも、自説を「折る」つもりでするもんなんだなと今さらながらに思うわけです。なので、どこに向かって折るかが決まってないと始まらない。議論の土台です。で、始まってしまえば、向こうの折れ線はわからないわけだから、探すべきは自分がどこで折るかなんだよな。これが案外難しい。「そう思うんだね」式の受け答えって、折る地点を見つけるために相手の位置を測るレーダーなんじゃないのかな。(喩えが嫌いと言いながら、全部喩え話です)

■議会や学問はどうだろう。また別なのかもしれないし、そもそも折る方向は決まっているという気もする。このあたり喩え話の限界だね。

■そもそも一度や二度の議論で結論が出るわけないので、「そうだね」で時間稼ぎしてるあいだに、ひたすら折る地点を探索しまくるということなんじゃないかな。俺は最近、会話の中で「でも」という接続詞は捨てました。使っちゃうこともあるけど。代わりに「そうなんだ」「なるほど」を多用。「そうなんだ」でつないで、まったく逆のことを言ったっていいんですよ。それでも通じるから。そうやって、お互い違うことを言って、別に一致も見なかったけど話は続いた、とかやっているうちに当座の結論が出たというのがいいな。そういう「相手の尊重」もあると思う。

■一方で、そうやって多くを時間に委ねるのもつまんないな、と思う自分もいたり。なんかいかにも「大人の意見」みたいな感じで、落ち着いちゃってる。もっとこう尖ってな。藤原喜明みたいな心持ちで話したっていいじゃないか。