漂流日誌

札幌のNPO「訪問と居場所 漂流教室」のブログです。活動内容や教育関連の情報、スタッフの日常などを書いています。2002年より毎日更新

キルケゴールのこと(昔の感想、今の感想)

■ボランティアスタッフの坂岡です。よく「暑い」と聞きますが、京都育ちの人間からすると「暑い」って言葉の閾値がちがうように感じます。盆地はサウナですよ!

■今たまたま目の前の本棚においてあったので目に付いたのが、工藤綏夫著『キルケゴール』(清水書院)。大学二、三年生の頃、一時期キルケゴールを「下手の横好き」していたのを思い出しました。

■「私にとって真理であるような真理を発見し、私がそのために生き、そして死ぬことを願うようなイデーを発見することが必要なのだ。いわゆる客観的な真理などを探してみたところで、それが私にとって何の役に立つだろう。」「人はほかの何ものを知るよりも先に、自己自らを知ることを学ばなければならない。さあ、賽は投げられた。私はルビコン川を渡るのだ。この道は私を闘争に導くだろう。だが私はたじろぎはしない。過ぎ去った時を悲しもうとは思わない−だって悲しんだとてなんになるものか。私は見出した道を駆けて進もう。」これが、キルケゴール22歳の時の日記だそうです。カッコイイですね。

コペンハーゲン大学の学生時代、カフェや劇場を放浪したり、「神学に打ち込んでほしい」という父親の期待に反して文学や哲学を研究していたキルケゴール。そんな日々からの解放を求めるように旅行をしていたとき、彼は「大事なのは、お仕着せの真理じゃない、主体的真理だ。俺自身が納得できて、自分の人生を賭けても悔いはないと思えるような真理を目指すのだ!」と思い至りました。おそらく、お父さんへの反発、当時の哲学や神学の権威に対する反発、彼が「大衆」と呼ぶ者への反発、いろいろと納得できないことが多々あったのでしょう。そして、自由や主体的な生を窒息させようとしてくるものたちからの精神的独立を求めていた、と考えたらよいのかも。

■この本を読んだ当時、僕自身が「世の中に対して納得できないこと」だらけで、「自分ってなんだ?」と悩んでいた。だからキルケゴールを読んですごく共感して、「自分の中のヒーロー」のように奉っていたのだと思います。じゃあ、今はどうなのか?

■「まわりがなんと言おうと自分自身が納得できる生き方を見つけること」、そして、「自分の生き方を貫くためには必ず闘い(自分との闘い、他人との闘い)が生じるのであり、それを避けては通れないこと」、この二点についてはいまだに納得できるし、力強いメッセージだと思います。だけど、「やっぱり仲間も必要だ」、「自分が納得できると同時に、なるべく皆が納得できることも必要だ」、とも、今は思います。キルケゴールは「主体的真理」、「神の前の単独者」ということをいいます。それは、「自分」を放棄させようとしてくる圧力の中、孤軍奮闘している「単独者」たちを確かに勇気づける。だけど、おそらく「闘い」だけじゃなく、「自分にとって大事だと思うことを部分的にでも分かち合える人がいる」ことを、信じてみてもいいのかもしれない、と今は思います。もちろん、彼の言う「闘争」は、愛するための闘いであり、自分との闘いでもあったわけですが……。

■「結局人間は一人なんだ」という開き直り(兼ヒロイズム)は、勇気であると同時に、ちょっとした自己愛的な匂いもつきまといます。当時の僕はそんな感じだったと思う。

■にもかかわらず、やっぱりこうも思います。一度徹底的に、「人間とは単独者なんだ」、「どれだけ相手のことを思いやっても、自分は相手の気持ちがわからないし、相手も自分のことはわかってくれない」、「今まで、人と人とはわかり合えると思っていたけど、わかりあえなくて当たり前なのかもしれない」、と覚悟したところからしか、「本当の意味での仲間」という実感はわからないのではないか。

■結局何が言いたいのか。「単独者」、だけで終わっては、やはり人間は生きていけない。人間は誰かと共に生きるようにできている。だけどだけど、やっぱり、「単独者」ということを一度は徹底的に思い知っておいたほうが、「仲間」という言葉がうすっぺらでなく、実感としてわかるようになる、という気がします。「君はひとりじゃない」、「みんななかよく!」「ラブ&ピース!」というような安易なフレーズをはねのけるような鋭さがキルケゴールの言葉にはあるわけですが、それは関係を拒絶するためではなく、むしろ、「仲間」ということのスタート地点を設定するための言葉であるような気がしているのです。主体的な単独者であってこそ、人間的な関係を結べるんだと思います。おそらくそれはキルケゴールと同じように、22歳くらいまでには気づいたほうが得な事柄なんでしょう。