■日曜日は相馬の日誌にもあるラジオ「ナナメの場」に出演した。
■ホームレスの夜回りの仲間と話していた、「居場所」の空間が変わると人間関係が変わるという話と訪問から見えてくる時間と人間関係の絡みについての話を、番組ディレクターに捕捉されて出てくれないかと頼まれたのが夏前だったか。そこから色々と考えられたのは面白かった。
■「居場所」という言葉が不登校業界で使われ出すのは90年代の終わりくらいからだと思う。不登校新聞の創刊号でも「学校以外の居場所」という語は出てくる。しかし、手元にある1983年出版の「登校拒否」(金剛出版)という本では出てこない。「居場所」は恐らく学校に代表される既存の組織体ではない関係性を持てる場所として登場した語なのだろう。「場所」と書かれてあってもそれは物理的空間とは関係ない。人間関係を構築するステージというほどの意味合いで使われているのが「居場所」の「場所」なのだ。では「居」は何か。それは、「居る」という動詞によって、そこに存在する時間が必要であることを示していると自分は解釈している。つまり「居場所」という語が表しているものは、「学校のような既存の関係性から抜けて新たな人間関係を構築できるほどの時間を過ごすことが可能なライフステージ」となる。多分この時間を短くすれば、ファシリテーションとか上手に会議をする方法みたいなもの、茶の湯でいう一座建立のような考え方になるだろう。「居場所」という語を使う時に暗示されている関係性が、構成員が対等であることや居心地のいい関係であることも納得いく。
■漂流教室は週に一回一時間の訪問を重ねることで関係を作るということをしてきたので、逆に場所で何が起こるのかにはそれほど自覚的ではない。今回の番組には建築家がゲストで招かれていて、話の中で今後につながるヒントもあった。
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■原っぱと遊園地でそこにいる人がどう過ごすかが変わるという話は、時間でも同じだと思った。訪問でカリキュラムやプログラムを用意しないというのは、その時間を自由にするということだ。ただ、時間の場合はそれが無為に過ごすという悪いイメージで捉えられがちなのが残念だ。また、北海道では店を作る時に中が見えるのは流行らないというのは面白かった。もしかすると、時間の扱い方も土地や世代によって流行とでもいうべき、違いがあるのではないか。それは、歌舞伎やオペラのようなフォーマットが成立しているものを演じる場所の建築は考えられるが、クラブやライブハウスのような自由度の高いところだと難しいという話ともつながるかもしれない。プログラムやカリキュラムがあれば時間の使い方やファシリテーションはやりやすいだろうし、そうしたフォーマットは土地や世代によって変わるのではないか。
■上で見たように、「居場所」という語は原理的に一人で過ごすことを含んでいない。しかし、人はもともと一人でそれなりに心地よい時間を過ごすことを生きる上で必要としている。これを「居場所」という語を付着させた空間に求めるのが、矛盾を生んでいるのではないか。空間と場所とそこで成り立つ関係性の三軸から活動を捉えると、漂流教室のやっていることの分析は少し進むかもなあ、と思った。(火曜日)