■正月来の洗濯など。
■体罰が原因で自殺した高校生が出て、またつらつら体罰のことを考えている。これまでの日誌を見返したり。興味のある向きは左の検索欄に「体罰」と入れて検索すると、この日誌で過去に行われた話が出てくる。
■自分は「体罰には効果がある時があって、以前の社会はその条件を作り出しやすかったが、今は違うようになった/コミュニケーションに繋がらない体罰は意味がない」という捉え方をしていた。今回、ツイッターでこういう意見を読んで、ぴたっと来た。
体罰に一定の効果があるという主張には、たしかにそうかも知れないとは思う。少なくとも一定の条件下では有効かもしれない。ただ副作用がかなり大きいということはほぼ確実。
— afcpさん (@afcp_01) 1月 9, 2013
では、どうするか。医者の発想だと、まず上位免許を用意する。「教育体罰指定教員」とかではどうだろう。その上で届け出を義務づける。体罰の対象、目的などを書面で提出させる。百歩譲って、事後報告でもよいことにしてもいいかも。
— afcpさん (@afcp_01) 1月 9, 2013
その上でインフォームド・コンセントを取る。生徒と保護者から、体罰使用についての同意を得る。「僕はどうしても全国大会で優勝したいので、体罰を受けてもいい」という高校生はいてもいいような気もする。
— afcpさん (@afcp_01) 1月 9, 2013
精神保健指定医は、強制入院とか身体拘束とかを、このくらいの基準で運用している。有効な場面はあるが、副作用の大きい治療だから、そうなる。体罰肯定派の方々は、ほんとに有効だと思うなら、これくらいの提案をされてはいかがか。
— afcpさん (@afcp_01) 1月 9, 2013
■そういえば「体罰」の「罰」について。「罰」とは誰のためのものか考えてみた。「罰」を受けるのは「罪を犯した人」であるが、よしんば「罪を犯した人」自身が罰を求めることがあったとしても、「罰」の内容を決めることはできず、「罪を犯された側」が決める。つまり、「罰」は「罪を犯された側」のために存在する。上記のツイートで肝になるのは、「インフォームド・コンセントを取る」という部分だ。与えられる「罰」の内容は分からないが、それに指導上効果があることを自分が受け入れる事を相手と予め合意する=対話を行っているというところ。通常の「刑罰」は裁判を経て決まるわけだが、その中では双方に弁明の機会が与えられる=対話が行われている。そこまで慎重を期しているのは、権力が容易に個人を痛めつけることが可能だからでもあるはず。そして「罰」としての刑の内容や期間も、良く考えられている。もし学校が社会の縮図であるというならば、そのあたりをよく反映させたシステムを考えることも必要だと思う。(12日)