漂流日誌

札幌のNPO「訪問と居場所 漂流教室」のブログです。活動内容や教育関連の情報、スタッフの日常などを書いています。2002年より毎日更新

お隣と似たり寄ったり

■すさまじい風。台風並だ。漂着教室に来る子も一人だけ。訪問も休みになり、終日漂着教室で過ごす。

■中三生に新しくもらった教科書を見せてもらったら、後ろにこんな文言が書いてあった。

この教科書は、これからの日本を担う皆さんへの期待をこめ、国民の税金によって無償で支給されています。大切に使いましょう。

相馬氏によれば、これまでは別刷りで配布されていたそうな。まるで、無償で学べることに感謝し、これからの日本の役に立つよう学習しなさいと言われているようだ。これには、どこぞの国で将軍様に感謝するように言われているのと同じ志向を感じてしょうがない。

■教育の目的は第一に個人の人格完成が目的であって、社会の進歩は人格が完成された人間が増えることによってなされることに期待しようというのが筋だろう。教育基本法の第一条もそういうことになっている。期待はするが、そうなるかは教育とは別の問題ということだ。なぜなら、「社会の進歩」の基準は容易に為政者によって変わるもので、「進歩に役立つかどうか」という功利主義的観点に容易に結びつき、基準に合わない人間を排除するシステムを志向するようになるからだ。外在する評価基準によって常に疎外されるかもしれないという危機感の中で育つ人間は、自分の内に判断基準を育てることはできまい。せいぜい、外在の基準を自分のものと信じ込んで生きるだけだ。それは多様性に欠く社会を生み出し、社会全体が危機に陥ったときに硬直した対応しかできない集団を生み出す。WindowsしかOSがなければ、Windowsがピンチになるようなウィルスを作るだけでネットワークを混乱させられるのと同じだ。そのような社会は、進歩しているとはいえまい。(5/23編集。「人間は排除されるシステム」を上記に変更)

■また、教育がその基準に合わせた人間を作り出すようになっては、学問の進歩もゆがめられる危険性がある。戦時中の教育を振り返ってもそうだし、今だってゆとり教育だ学力向上だと言っているのはそれだ。人間の有り様が多様であれば、学問も多様になる。多様性を保障する社会が社会自身のサバイバビリティを高める。「日本がピンチだ」みたいなことを言っている人は、多様な有り様を受け入れられない故に危機感を持っていると思うが、どうか。