■「多様な学び実践研究フォーラム」は、さまざまな教育機関や教育手法のブラッシュアップセミナーだった。あれは名前が間違っている。「多様な学び実践研究フォーラム」ではなく「多様な教育実践研究フォーラム」が正しい。
■サドベリーやシュタイナーなど、学校と認められていないが、独自の理念と手法を持つ教育機関(いわゆるオルタナティブ・スクール)を取り上げ、公教育のなかで進歩的な授業に取り組んでいる教師が紹介された。いわゆる一条校しか「学校」と認められない制度を変えるためにどうすればいいかの議論があり、教育機関として質を高める一方、そのような民間団体同士が互いに正当性を保障する、相互認証の組織をつくろうという動きが出る。研究者も参加して、「教育の場における多様性とはなにか」と問いを発する。
■どうすればもっと授業がよくなるか。実践の基盤をつくる理論はなんなのか。どうすれば制度を変えることができるか。磨かれた実践を魅力的に発信できれば、もっと広く世の中に知られ、賛同者が増えるかもしれない(発表者がやたらにプレゼンがうまいのだ)。今後、意欲的な教員や先進的な塾が参加する可能性だってある。少なくとも断る道理はない。
■そのなかで「不登校」はぽつんと置き去りになっていた。多様な教育の目指すものは「ここに行きたい」「これをしたい」だし、「ちょっと待って」「なんかイヤだ」が不登校なのだから仕方ない。「学校に行きたくない」と「多様な教育のどれかを選ぶ」は一直線につながってはいない。(『子供が学校に行かない』から『どこかに行かせたい』まではかなり短い直線でつながってるのが困りものだったりするのだが)
■教育実践を高めることは大事だ。単純にスタッフの質の向上という点からも、社会での位置づけという点においても。制度に位置づけられずとも、魅力ある教育内容に理解者が増え、それぞれ理想の教育を始めることで、勝手に根づいてしまうということだってある。そう思いつつ、どこかひっかかるのは、根幹の理屈が未整理なままにされていることの気持ち悪さだ。教育機会確保法はそれで紛糾したのじゃなかったか。
■「教育」と「学習」の取り違え。「不登校」と「選択」のすり替え。ここに切り込まないでいくら上物を立派にしても、砂上の楼閣だ。奇しくも、発表者だった小学校の先生がこんなことを言っていた。「学校では、子供は未熟で導かねばならない存在だという意識が根強い。土台の教育観をそのままに、どんな新しい手法を入れても、土台の認識に染まってしまう」。同じことじゃないの。
■フリースクールにせよオルタナティブ・スクールにせよ、実践の批判、検討は重要だし、それを公教育も民間も一緒にできたら面白い(個人的にはしているが)。そのためには土台の歪みは直しておかねば。(2/7夜)