漂流日誌

札幌のNPO「訪問と居場所 漂流教室」のブログです。活動内容や教育関連の情報、スタッフの日常などを書いています。2002年より毎日更新

いじめ問題について考えるつどい

■10/11(土)、江別登校拒否と教育を考える会「もぐらの会」主催、「内田良子さんといじめ問題について考えるつどい」に行ってきた。北広島で昨年、学校と北広島市教委の不手際から、いじめを受けた子が不登校になり、いじめを担任に訴えた子が転校をよぎなくされるという事件があった。その当事者を含む、いじめに遭った子の保護者3人がシンポジストとして参加した。コーディネーターは心理カウンセラーの内田良子氏。

■このシンポジウムを聴くにあたり、3つの軸を自分の中に用意した。

  • 自分が、いじめのあるクラスの担任だったらどうするか
  • 自分が、いじめた子の関係者だったらどうするか
  • 今の自分にできることは何か

被害者を集めてのシンポジウムだから、ほっといたって立ち位置はそっちへ流れる。敢えて違う視点から会を見ることで気付くものがあるかと思った。というのは半ば言い訳で、本当はただつむじ曲がりなだけだ。

■いじめの対応は難しい。自分が担任だったら、と仮定した途端、いろんな困難が想像される。注意したところで、次はより見えない形で継続するに決まっている。手を下しても下さなくても悪化する。パネリストそれぞれの体験を聞けば、確かに学校の対応はおかしいのだが、聞きながら、心中、「仲間が欲しいなあ」と思った。学年主任、教頭、校長、教育委員会。子供や保護者から見れば「仲間」に映るかもしれないが、それぞれはむしろ利害関係にある。お互いを見張るような関係じゃ、ミスも隠すかもしれない。またはその逆もあるだろう。そうではなく、間違ったら間違った、正しければ正しいと言って気兼ね、損得のない「仲間」が欲しい。

■仲間が欲しいなあ、で止まって、どうしたらいいか考えあぐねてた俺だが、答は意外にもすぐに出た。というより、実に当たり前のことだが「信頼できる大人が欲しい」という一点につきるのだった。では「信頼」とは何か。シンポジストのひとりが子供の声を伝えてくれた。「先生に相談しても、いじめがなくなるとか解決するとは思ってない。それでも相談したのは、『一緒に考えよう』と一言言って欲しかったから」と。体験談の中にも「孤立」「助けがない」「ひとりぼっち」という言葉が何度も出てきた。自分が思い悩んでいる間、同じだけ考えてくれる人が欲しい。上の「仲間」にも通じる。それが叶わないのは、「いじめ」という言葉の持つ強烈さだろう。「いじめ」という「問題」を「解決」するため関係者は奔走する。それは時に関係者にとっての「解決」となって、子供の希望を無視した動きになる。解決を急ぐ心が仇になるという皮肉なことが起きる。

■余り語られないが、いじめた側も辛い。ひょんなことから、いじめた側の子のその後を聞いた。進学校に進んだそうだが、そこでひとり荒れているのだという。自分はいつかいじめた子から裁判を起こされる。将来なんてないんだ、と言って荒れてるのだそうだ。いじめの最も大きな問題のひとつは、関係者を過去の一点に縛り付けてしまうところにあると思っている。受けた側もした側も。そういう子のそばで自分は何ができるか。

■その答と、3番目の視点は重なる部分がある。傷が大きくなる原因のひとつは、利害関係のある者同士が直接ぶつかるからではないか。あるシンポジストがこういうことを言っていた。「いろんな機関に出向いたが、心の整理をしてくれるところはあっても、間に入ってくれるところはなかった。前に進める提案をしてくれるための、調停、仲裁をしてくれる機関が欲しかった」。とある支援者が一緒に学校に出向いてくれて、本当に嬉しかったそうだ。「漂流教室」がもし進行形のいじめに関わることがあったら、第三者として学校と家庭の間に入る、というところに落ち着くのではないか。それが過去への固定を防ぐ手立てにもなるように思う。

■内田良子氏はいつもの「不登校は命の非常口」という話。特に記すべきことはなし。聴衆およそ70名。遠く帯広、北見から来た人もあった。それだけ周りに相談できるところがない、ということだろうか。「孤立」という問題はやはりここでも見られる。