■今年も「不登校・登校拒否・高校中退」分科会に参加。提出レポートは4本。参加者は1日目が15人、2日目が10人。少人数だと議論が深まるのがいいが、それでもこの数は寂しい。教育大の学生や高校生の参加もあったのはよかったな。
■教員からのレポートが2本。高校の養護教諭から、保健室の相談活動から見える学校の現状報告。保健室に相談に来る生徒が非常に多い。本来、担任や部活顧問に相談すべき内容が保健室に持ち込まれる。なのに、他の教師との連携がない。教師は担任も含め初任者が非常に多く、毎年の人事異動で約半数が入れ替わる。これでは経験の蓄積も教師間の横のつながりも生まれない。実際、すぐいなくなってしまう学校に、愛情を持つのは難しいだろうと思う。これは何もここの高校に特別なことではなく、地方の高校では普通にある光景だという。高校ばかりではない。小学校も中学校も20代の教師ばかりとか。都市部と地方の格差は歴然とある。「教育は平等ではない」とは発表者の言葉。こういう現実を無視した「学校選択制」や「バウチャー制度」なんて、全くナンセンスだとわかる。
■もう1本は小学校教師から。家庭事情をもろに受け、学校を休みがちなひとりの子供との関わりの丁寧な記録。保健士や子育て支援グループとチームを組み、子供だけではなく家族ごと支える体制を築いたところまでが記されている。自分に出来ることと出来ないことを早目に見分け、学内のヘルプ体制を組む。さらに学外へ協力依頼。そして冷静に家族の様子を見る。不登校の対応にはこれだけのことが必要だ、とその先生は言った。レポートはこう終わる。「(子供の成長の)通過点に様々な大人は支えられるところで支えて、橋を渡していってあげる。(〜中略〜)一通過点にいるおじさんが、この子たちに何をしてあげれるかな?」。これは「漂流教室」が言ってきたことに重なる。
■この後も、教員の置かれている現状に話題が集中した。それだけ学校は大変な状況にあるのだろう。ある参加者からは、「分からないことは分からない、出来ないことはできないと言う。先ず教師にはそれが必要だ」という旨の発言が出た。それは確かに正しい。しかし、分からないと言えば一緒に考えてくれる人が、出来ないと言えば手伝ってくれる人がいなければ、「分からない出来ない」とはなかなか言えない。学内にも学外にもそういう人が欲しい。「不登校問題とはつまるところ、学校づくり、地域づくりである」と共同研究者のひとりはまとめた。
■いま、学校は世間と分断されつつある。一連のいじめ、未履修問題の報道を見ればわかる。学校づくり、地域づくりが重要だという指摘は正しい。その視点からの報告が来年以降望まれる。しかし、それは車輪の片方でしかない。学校の現状が明らかにされたのはよかったが、議論がそっちに流れ、子供の話がどこかに行ってしまったのは不満が残った。この分科会を「学校づくり」分科会と合併してもいいのではないか、という話題も出て、そのときは上手く言葉に出来なかったが、やっぱり賛成できない。よりよい学校のあり方と、学校システムから外れた子への支援をどうするのかと、不登校を語るにはこの両方がいるんじゃないかな。
■レポートの残りの2本はフリースクールから。北海道自由が丘月寒スクールからは、障害を持つ生徒の学習の実践記録。「漂流教室」からも1本。昨年の合同教研で出た学校開放の事例を受け、ある訪問先が学校と交渉し、体育館の開放にこぎつけた。その模様を簡単に報告した。分科会で出た事例を個々の活動に還元し、その結果を翌年分科会にフィードバックする。そういうサイクルがあってもいいなと思ったのだ。それも実際に動いた訪問先あってこそ。感謝感謝。