■午前中に「アウ・クル」のトイレ掃除をしたのは、ツキを呼ぶためでも心を磨くためでもなく、単に今月の当番だったから。掃除に掃除以上の意味はない。だから素足になったりしないし、「ありがとう」と呟いたりもしないよ。
■「教育」という言葉はいろんなものを想起させる。今、それらをひとつひとつ書き出している。自分が何を指して「教育」と言っているか、きちんと把握するためだ。来年度に企画している座談会でも、この作業をしてもらう予定。それぞれ「教育」の定義が明らかになって、ようやく議論が始まる。
■俺にとっての「教育」は、疑う能力を養うことだ。疑うためには下地がいる。疑うために知識を学び、最後はその知識も疑う。だから、教育は最後でテキトーな方がいい。疑う余地のあるのがいい。疑いを許さない教育や完結した教育は、教育として既に死んでいる(道徳教育は特に死にやすいから注意が必要だ)。学びて時に之を疑う。亦説ばしからずや。トイレ掃除からなんか学んでる人も、たまには疑った方がいいぞ。
■内田百間は、学んで忘れるところに意味がある、というようなことを言っていた。学びて時に之を忘るる。亦説ばしからずや。こっちの方がかっこいいかな。
■訪問2件。今年最後の訪問になったところあり。早いのう。
(12/22追記)
■はてなに移行する前の日誌を月分けして見やすくしました。↑の「2004年9月までの日誌」からどうぞ。