■前回からずいぶん期間が空いてしまいました。前回はこちら。
■前回、「監視カメラと、通学路に個人商店が軒を連ねるのと、どっちが効果が高いだろうか、という話です」と書きましたが、別に個人商店は安全監視を目的にしてるわけじゃありません。客を待って往来を見ていれば、自然、登下校の子供が目に入ります。店には客が来ます。近所の客なので歩いてきます。やはり、子供たちに出会います。どちらも、本来の目的にくっついてきた"余分"ですが、この"余分"が網の目のように重なって、図らずも安全管理を担ってきたのだと思います。
■生産の場と暮しの場を切り離すということは、役割によって生活を分割するということです。役割ごとの分担は"余分"を生みません。"余分"がなければ、それが担っていた安全も一緒に消えます。そうなれば、もともと「安全管理」なんて役割は持っていない"地域"は、子供の安全を守るため、その役割を果たす何かを新たに追加するしかありません。スクールバス、住民パトロール、監視カメラ、全てそういうことです。
■それを咎めようとは思いません。ひょっとしたら「漂流教室」の活動だって、かつて"余分"がカバーしていた領域なのかもしれないのですから。ただ、「子供の安全を守れ」といって出てくる解決法が、どれも「役割による分担」からの発想しかないことが気になります。余分排除の思想しかないわけです。
■「知らない人についていかないように」と、子供に教えることは大事です。しかし、「知らない人についていかない」という"実際"は、「知ってる人をたくさん増やす」という"余分"に裏打ちされるものでもあったりします。"余分"を含む方法もきっと必要だと思うのです。
■病気だったり寝てたりで、昼の訪問2件が休み。通信作成後、助成金申請の書類を作り提出する。夕方の訪問先の子は中学3年。私立高の入試を来週に控え、さすがに不安になってきたらしい。どうしよう、緊張してきた、そんなことをしきりに言っていた。緊張してんだね、不安なんだ、といちいち返す。しかし、これ、傍から見たら禅問答みたいだな。僕らは迷い子。ワラをも掴めスラッシュ禅問答。