漂流日誌

札幌のNPO「訪問と居場所 漂流教室」のブログです。活動内容や教育関連の情報、スタッフの日常などを書いています。2002年より毎日更新

毎日ぼく眠れない

■毎日ぼく眠れないやるせない。いや、やるせなくはない。たまには身体だって寝たくないときがあるだろう(反対に、どうしても寝ようとするときもある)。こういうときはなるべく身体の要求に従うことにしている。

■俺は日光アレルギーがある。会社勤めをしてたころ、上司にその話をしたら、「そんなものは気持ち次第だ」と一喝された。この上司は肝臓が悪いのに酒を断らないのが自慢で、「身体は気持ち次第」をいかんなく発揮し、よく飲みに行っては翌日黒い顔をして会社に出てきた。そんな日は決まって機嫌が悪く、誰彼構わず雷を落とす。「身体は気持ち次第」転じて「気持ちは身体次第」に。精神は肉体を凌駕しない方がいいようだと、このときに学んだ。

■それで身体に無理させず仕事をしてたら、2年経ってクビになった。それからしばらく会社の前を通れなかった。誰かに会うのがイヤだった。平気になったのは、他の職に就き、曲がりなりにも金を稼ぐようになってからである。今は会社の近くを通るたび窓を見上げる。夜遅くや休日など、自分がまだ仕事をしているときに会社の電気が消えていると、何となく勝ったような気になる。「仕事が終わらなければ徹夜してでもやれ、休みでも出てきてやれ」と叱られ続けたせいだろう。我ながらくだらないと思うが、つい見てしまう。

■どういう流れか忘れたが、先週の合同教研で「傷を癒す場所が必要だ」という話が出た。それに反対はしない。だが、癒えるだけでは足りない。傷を魅力にする技術が必要と俺は思っている。

■前の職場は俺の「傷」のひとつだ。辞めたのはほとんど自身の怠慢が原因だが、それも含めて「傷」である。もう会社の前も歩けるし、誰に会っても構わない。そういう意味では傷は癒えた。だが、それでは“元に戻った”ということでしかない。ダメだった経験を切り捨てられるほど人生は長くないと俺は思っている(もう30台半ばだし)。もう一歩踏み込んで、「自分のダメだった部分」をウリに出来ないか。今の仕事はそれが可能である。だから始めた。それでも、まだ完全に魅力には出来ていないのだろう。窓を見上げるのはその表れだと思っている。

■『子どもたちが語る登校拒否−402人のメッセージ』という本を貰った。「不登校はムダではなかった、意味があった」の類のことがたくさん書かれている。それはそれで構わないが、ここで言うのはもう少し実際的な話だ。「ムダではなかった」ではなく「ムダにしない」、「意味があった」ではなく「意味を持たせる」という話である。前に「経験を無駄にしないための方法を後から考えることは出来る」と書いたが、「方法を考えなくてはならない」とした方が正確かもしれない。「傷」も「魅力」に変えて、何もかも総動員しないと、俺のように手駒が少ない人間はやっていけない。午前中の訪問がキャンセルになって時間が空いたのを幸い、ずっと書こう書こうと気になっていたことを吐き出した。長文失礼。(11/25昼)


■どうせ夜寝ないなら、それを利用しない手はない。遅くまで働いて、普段なかなか会えない友人を、会社まで迎えに行くことにした。

■着いたのが22時半。まだどの窓にも明かりが灯っている。友人の仕事ももう少し時間がかかるらしい。2時間ばかり辺りをブラブラして戻ると、窓の明かりが全然減っていない。「まだ仕事が終わらない、今日は会社に泊まりだ」と友人。忙しくて昨日も会社に泊まったと聞いている。大丈夫なのか。

■こうやって遮二無二に働いている人を見ると、昼間に書いたことが甘く思えてくるのも事実。しかし、身体を壊しては元も子もないからね。こんなときは何でも頼ってくれい。そう伝える。(11/25夜)


※本日の脳内BGM:6番目のユ・ウ・ウ・ツ(沢田研二