漂流日誌

札幌のNPO「訪問と居場所 漂流教室」のブログです。活動内容や教育関連の情報、スタッフの日常などを書いています。2002年より毎日更新

従順な身体

■このあいだ、道立図書館に行った。入口で会員証を提示(読み込むと住所がわかる)。非接触型の体温計で体温を計られ、熱がなければ手を消毒して入館できる。ずいぶんものものしいが、ほかの公共施設もこんなもんだろう。

■そういう俺も毎朝体温を測っている。公共交通機関に乗るとき、店に入るときにはマスクをする。意味あるのかと思わないではない。マスクはいまだに身に染まず、よく忘れる。その場合は行きたいところがあっても寄らずに帰る。我ながらずいぶん従順だ

■道を歩いていて警官に鞄の中身を見せろと言われたら、まず間違いなく抵抗する。法的根拠を問い、任意ならば拒否すると告げるだろう。公共施設の検温は当然、法的根拠はない。感染拡大防止のための「お願い」でしかない。では、どうして俺は従うのだろう。所持品検査のように拒否しないのか。

■施設管理者には施設を安全に運営する責任がある。感染の疑いのある人の入館を認めるわけにはいかない。だから熱があるか確認させてほしい。測ったって問題ないのでは。だって熱はないんでしょう。おそらく警察もおなじことを言う。怪しくないなら持ち物を見せたっていいだろう。

■こと新型コロナに関しては店舗や施設管理者に肩入れしている自分に気づく。管理する側なせいもある。なにが正解かは誰もわからない。なにを決めても不満は出る。それでも、なるべく感染者を出さないよう工夫する。右へならえで体裁を整えているだけではと疑問に思うこともあるが、お守り以上の予防策が現時点ではないことの裏返しでもある。

■一方で、しゃらくさいやという気持ちもある。マスクなんぞなくったって、熱を測らなくたってかまわないだろう。なんでいちいち自分の健康状態を他人様に示してやらにゃならんのだ。

■と、ここまでの話はなにかがすっぽ抜けている気もする。これが強制なら唯々諾々と応じるのか。任意だろうと強制だろうと拒否すべきものはあるんじゃないのか。または、自分以外の人の事情を汲んでいるか。俺がマスクなしで入ってもいいじゃないかと思っている施設の従業員は、万に一つの間違いもないよう自分の健康状態を他人に示している。それは仕事だからで済ませられるのか。

■一般道での前席のシートベルト着用が義務となったのは1992年。それまではシートベルトなんてしなかった。義務化されてからもしばらくは身に染みなくてけっこう締め忘れた。気持ちの上ではいまでもしたくない。だが、車に乗ると自動的に手が斜め後ろへ伸びる。そういうのは「従順な身体」と呼ぶのだと、そういや前に教わった。ミシェル・フーコーを読むべきか。

監獄の誕生 ― 監視と処罰

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