■先週の日誌に書いた国語の教科書とオトシブミの話は、やはり記憶のとおりハマキチョッキリでした。「せいようはこやなぎ」はポプラのことです。
■でも、巻いた葉はオトシブミの揺りかごタイプじゃなかったので、そこはほかの記憶が混じっていたみたい。書いたのがファーブルだっていうのも忘れていた。いま読むとけっこう渋いラインナップで、当時どんな気持ちで読んでいたのか。
■長い事飼ってきたもみじが火曜日の朝に亡くなった。前日の夜に帰宅したら顎に出来ていた化膿したデキモノが破れ、それ以外にも何か体液が床にこぼれていた。多分帰宅するのを待っていたのだろう、ふらふらと歩いてきて、様子を見ると体も汚れているので床と手足に着いている体液を拭き、いつものように餌と牛乳をあげてみた。が、食べない。この時にはまだ前回具合の悪かった時と同じように思えた。
■しかし、その後どんどん立つことが難しくなり、歩こうとしてもフラフラとして倒れるように寝転がる。辛そうなので抱き上げるが生来の多動キャットであり、下ろせとくねくねする。下ろすと立とうとして、へたり込む。とりあえず床で寝ているので様子を見ていた。
■大好きだった牛乳も飲まない。体を触るといつもより体温が下がっているのが分かる。なので、やはり抱いてやることにした。少し暖かくなると少し動けるようにはなった。一度下ろして布団を敷き、そこに寝かせた。ややしばらく寝転がっているが、そのうちにまた動こうとする。好きにさせてやると、テーブルの下に行った。そういえば、ぞんざいな扱いが好きだったと思い、こちらが椅子に座って足で頭をぐりぐりするとそれは受け入れていた。しかし、また歩こうとしてへたり込むので、もう一度布団に連れて行った。
■そもそもそんなにくっついてこない猫だったが、この時には随分とくっついてきた。頭を寄せ、おでこをくっつけてきた。また寒くなってきたのだろう。枕元にいるのを布団の中に入れて、横向きになり抱いてやった。明日になって生きていたら病院だな、と思いながらこちらもCPAPをつけて眠ろうとした。うとうとしている中でホルスが皿をがちゃがちゃ言わせて餌をねだっていたが、もみじを抱いていた。そのうちに、自分は浅い眠りに入った。
■朝方、抱いていると少しもみじがけほけほと咳のような、えずきのような音を出していた。多分、その時に亡くなったのだろう。七時半過ぎに目が覚めると、もみじは既にこと切れていた。死ぬと体液が出ると聞いていたが、口から血の混じった体液と尿をもらしていた。体はまだ暖かく、柔らかいままだった。何度も撫でた。そして、関係者に連絡をした。こういう時にすぐ連絡が出来る人と繋がっていられるのは、現代の強みだなと思った。幸い、相馬が午後一時までは漂着に居てくれるというので、それまでお別れさせてもらうことにした。ややしばらく、部屋でたたずんでいた。
■シーツと掛布団カバーはすぐに血の染みをオキシクリーンで洗った。すぐに消えたのには驚いた。布団を干してから、火葬に連れて行くために段ボールの箱に入れようとしたら、その時にはもう体がこわばっていた。尻尾だけが柔らかかった。
■亡骸を車に乗せ、コインランドリーにシーツ類を入れ、今まで何度も預かっていただいた井口さんの家に向かった。井口さん親子は花を手向けてくれ、もみじのことを撫でてくれた。ありがたかった。そして、新川にある火葬場に行った。市がやっている火葬場は骨を拾うことはできない。祭壇の前に亡骸を置き、線香をあげて冥福を祈ると、後は帰るだけだ。最後に、一度だけ顔を見て、さよならとつぶやいた。
■フリースクールってのはなんですかねー。たまに自問自答する。前にも書いたけど、俺はフリースクールという捉えどころのない業態をわりと気に入っている。あいまいな分、相手にあわせて柔軟に変化する余地がある。とかくこの世は忙しい。世間の枠から外れていることで一息つけることもある。
■2011年、第3回JDECに登壇した、アメリカはクロンララスクール創設者のパット・モンゴメリー氏はフリースクール、またはデモクラティックスクールについてこう述べた。
これらが保障されている場所は名前のいかんによらず「フリースクール」だと。また、self-governmentが重要とも言っていた。
■といっても、並べただけではただのお題目だ。それをどうやって実現するか。仕組みができたとして、それが機能しているか常にチェックしなくてはならない。理念は自らを研ぐ砥石だ。そして、その外側には人権や民主主義といった、もっと大きな理念が控えている。それをどう実現するか。だが、うっかりすると、理念を掲げただけで「なにかした」気になってしまうことがある。自分たちは子供中心の活動をしている。なぜなら子供中心の活動をするのがフリースクールであり、自分たちはフリースクールだから。誤った三段論法。こうなると理念は自らを研がない。批判をかわす盾に堕す。「多様性」という言葉を隠れ蓑に理念ばかり掲げて内実を見せなくなる。
■という投稿を何度繰り返したことか。俺も俺で進歩がないな。ただ、「フリースクール」ではあっても「NPO」ではない(思想的に)ところがあるんだなということはなんとなく見えてきた。そして、教育機会確保法によってフリースクールをフリースクールのま保存しようと画策して失敗したんだということも。
■一年半ぶりにテーブルを出しました。これでようやく台所で立ってご飯を食べる生活ともおさらばです。
■今日はこの後出かける訪問です。いつも出掛ける訪問は「映画を観る」「ご飯を食べる」「買い物をする」等、訪問先の子と目的を決めその目的に合わせスケジュールを決めていましたが、今回は何も無し。待ち合わせ時間と場所だけ決めて、その後は気の向くまま外で過ごしてみようと思います。
■出かける訪問の良いところは、スタッフ側からすると普段家では見られない訪問先の子の様子が見られたり発見があったりだと思うのですが、やっぱりどこか時間やスケジュールに押され忙しない。なので今回は、その忙しなさからあえて一旦外れてみようという作戦です。
■さっぽろ駅で待ち合わせて2時間の訪問。一体何をして過ごすのでしょう。では行ってきます。
■ソウアライブのお仕事の途中で階段を踏み外して足を捻ってしまった。ううう。歩くのがややゆっくりになってしまった。
■木曜日の日に来た利用者が体験させてくれた、ウェアラブルネックスピーカーがとても良くて、給付金が入ったのもありamazonでぽちっとな。
何がいいと言って、外の音がはっきり聞こえることだ。ほぼ自分にだけ聞こえるBGMが流れている感じになる。そして、コードレスなので引っかかることが無い。家の中で料理しながらとか、外で散歩の時なんかにいい。これまで使っていたイヤホンは遮音性がとても高いもので音楽に没頭するものだったのだが、周囲の音がほとんど聞こえなくなるので危なさもあった。■ただ、イヤホンって「音楽聞いてますよ」サインだから、道のティッシュ配りなんかに「話していることに耳を傾けないよ、一人にしてね」というメッセージを自分が伝えているつもりになれるんだけど、それがこれだと無い。まあ、もともと伝えているつもりなだけだから、いいっちゃいいんだけど、なんか少しバリアが無くなった感はある。