漂流日誌

札幌のNPO「訪問と居場所 漂流教室」のブログです。活動内容や教育関連の情報、スタッフの日常などを書いています。2002年より毎日更新

「メンタルフレンド」の「メンタル」って何?(現象学的/臨床心理学的考察その1〜哲学編〜)

■ボランティアスタッフの坂岡です。今回、いつも以上に固い文章になりますが、ご了承を……。

■よく考えたら、僕は「メンタルフレンド」っていうボランティアをしているんですよね。でも、「メンタル」ってなんなんでしょう。ググってみると、東京都や神奈川県のHPが出てきて、「子どもの心の友」(ジャイアン?)と書かれていました。なるほど。でも、その「心」っていうのが何なのか。僕はそれが知りたくて検索してみたのですが、具体的に書いてあるわけではないようです。

■僕は心理系の大学院生なのですが、この「こころ」っていうやつがよくわからなくて、(はっきり言って「うさんくさい」とすら思っていて)「心理って何やってるの?」という質問を人にされたらどうしよう、と、入院してからずっと怖がってきました。「こころなどという大それたものの専門家なんて、とてもじゃないけど名乗れそうもない……」と、そういうふうな印象を抱いていたのです。

■ところが、心理学の本を読んでみても、「こころ」がなんなのか、ということについて、納得のいく議論が全然書いてない。せいぜい、「明示的な行動に影響を与えているであろうと仮定される生物個体内の背景要因(ブラックボックス)」といったところでしょうか。

■この問題について一番納得のいく形で説明を与えてくれたのは、竹田青嗣という現象学的哲学者でした。竹田の説明によると、そもそも、「こころ」というものは、「物事を対象化(≒認識)する原理(≒法則)それ自体」なのであって、実体的な事物(≒見たり触ったりできるモノ)のように、「すでに対象化された対象」とは、存在論的カテゴリーが異なる。したがって、「対象化された事物」を説明しようとする従来の自然科学の文脈では、「こころの本質」をとらえきることがそもそもできない、というのです。(ただし、「こころの対象化可能な側面」については、部分的にとらえることは可能。)

■そもそも、「学問」というものは、西研によれば「なるべく普遍的な共通了解をつくりだすための言葉のゲーム」なのですが、物理現象ではなく、「こころ」について共通了解を作ろうと思えば、「自然科学」の枠組みだけでは対処しきれない部分がどうしても残る。それは、「人が世界を体験し、対象化する原理」(≒人生の意味と価値)の側面です。この点については、物理学的に検証したり、解明したりすることができないので、「事物知覚に基づく実体的な因果関係の証明」という手続きはとれません。じゃあ、「こころ」の領域についてはまったく共通了解が取れないのか?そんなことはありません。事物知覚ほどの強固な共通了解可能性はありませんが、「意味・価値の了解」に関しても、ある程度の共通了解は可能なのです。それを可能にするのが、「内省reflectionによる確かめ」という手続きです。

■学問には「根拠evidence」が必要ですが、このevidenceを「事物知覚に基づく実体的な根拠」だけではなく、「内省による普遍的な確かめが可能な根拠―reflective evidence」(西研)にまで、拡張すればいいのです。こうすることによって、学問のカバーできる範囲は、事物知覚(≒実際に見たり触ったり)の不可能な、「人間固有の心的現象」にまで広げることができます。(※ただし、後に検討しますが、単に内省すればいいというのではなく、「内省のスタートライン」を揃えなければ、共通了解は成立しません。)

■「こころ」に関するある知見が、どれほどの共通了解可能性をもっているかということは、物理的に確かめられない以上、「各人が自分の人生経験や意識過程を振り返ったり、多くのケースに想像的に当てはめてみたりして、その普遍性を確かめる」しかありません。そうやって、各々の主観によってオープンに内省・確認/反証・修正作業が行われ、研ぎ澄まされた知見―「ある現象についての共通了解可能性の高まったものの言い方」―のことを、その現象の「本質」と言うのです。これが、「哲学的思考」(西研)と呼ばれている思考のあり方です。

■そうやって取り出された「こころ」の本質に関する知見の内、最も重要な原理が、竹田がニーチェフッサールハイデガーの哲学から取出し、洗練した「関心相関性」の原理です。これは、「振り返って(reflection)」みれば誰でも確かめることができるので、やってみてください。

■「関心相関性」とは、人間の世界認識は、「欲望―身体―関心相関的である」ということです。「水たまり」は、「乾燥地帯で三日三晩何も飲んでいない人」にとっては、「貴重な飲み水」として立ち現われますが、「出社を急いでいるサラリーマン」にとっては「邪魔な障害物」として立ち現われます(「水を飲みたい」欲望、「出社したい」関心)。身体の障害のために車いすに乗っている人にとって、階段は「障害物」として立ち現われますが、そうでない人にとっては、「便利な通路」です(「足」という身体)。「モンハン」が大好きな少年にとって、攻略本はワクワクする好奇心の対象かもしれませんが、「息子にはもっと勉強してほしい」という「欲望」をもったその子の親にとっては、「受験の邪魔をする誘惑者」かもしれません。

■したがって、現象学的に言うと、「こころ」の本質は、「世界を欲望―関心に応じて対象化する働きそれ自体」、もっというなら、「関心そのもの」、「世界が関心相関的に現象する場所それ自体」ということになります。

フッサールは、「意識は必ず何かに関する意識である」ということを、「志向性」と呼びました。さらに言えば、この「志向性」は、reflectしてみると、必ず「生活上の関心」ということになっていますので、mentalの本質とは、「生活上の関心」であり、「志向性」だということができます。

■これが、「こころ」の原理の中の原理、ということになりますが、次に扱わねばならないのは、「メンタルフレンドにおけるメンタルとは何か」ということなのです。先ほどまでの議論で言えば、「こころ」とは「関心相関的」な現象なので、それを「メンタルフレンド」という文脈の中でとらえようと思うなら、やはり、「関心相関的」にとらえなければなりません。つまり、「メンタルフレンド」という概念にこめられた「志向性」を明らかにし、その志向性の文脈の中で、「メンタル」ということの意味を考えなければならないのです。(これが、先に言った「スタートラインを揃える」、ということの意味です。)「ある知見が正しいかどうか」、ということは、「それ自体」では判断できません。それは必ず、「その知見が提示される関心および文脈」と相関的に考えられなければならないのです。

■では、「メンタルフレンド」における「関心」とは何か。それは、「この仕組みを活用する主体とfriendlyな関係をつくることにより、mental面でのサポートを提供すること」という感じになるのではないでしょうか?(この「知見」もまた、オープンに、かつreflectiveに検討・洗練されなければなりませんね。)つまり、「メンタルフレンド」における「メンタル」とは、教育学的・福祉学的・臨床心理学的な「支援」という文脈において検討されるべき概念になります。次回は、主に「臨床心理学的」な文脈からmental概念について検討したいと思います。(ちょっと予告すると、やはり、「主体の欲望―関心」がキーワードになりそうです。)