漂流日誌

札幌のNPO「訪問と居場所 漂流教室」のブログです。活動内容や教育関連の情報、スタッフの日常などを書いています。2002年より毎日更新

『千年女優』をラカンっぽく見てみる

■ボランティアスタッフの坂岡です。4月からめまぐるしく忙しく、昨日ブログ担当だったのに穴をあけてしまいました。ようやく少し休める時間ができたので、今からゆっくり書こうと思います。

■このあいだ今敏監督の『千年女優』というアニメ映画を見たのですが、面白かったので、その感想でも書こうかな。※以下ネタバレ注意です。

■あらすじはこんな感じです。伝説の大女優・藤原千代子という人が主人公。女学生だった頃に、絵描きの青年と運命的な出会いをし、彼から「何かの鍵」を渡されます。が、すぐに彼の行方が分からなくなってしまう。彼女は、彼―「鍵の君」との再会を夢見て映画界に入り、スターにまで登り詰めました。彼女の演技を魅力的なものにしたのは、「憧れの『鍵の君』にまた会いたい」という強い思いでした。その思いが真に迫っていたので、「迫真」の演技ができたのです。つまり、「『鍵の君』と会えなくなってしまったこと」が、彼女を「大女優」たらしめたのでした。

■そして、臨終の瞬間、「やっと天国であの人に会えますね」と言われ、彼女はなんとこう答えます。「どっちでもいいのかもしれないわね。」そして、最後の台詞。「だって私、あの人を追いかけている私が好きなんだもの。」

■僕がこの映画をみて思い出したのは、ジャック・ラカンという精神分析家が唱えた「対象a」という概念です。「対象a」とは、一言でいうと「欲望の原因としての欠如」のことです。もっとわかりやすく言うと、人間は、「何かが欠如している」という感覚を持っている時こそ、自らの欲望をリアルに実感できるし、それを求めずにいられなくなるということです。それが欲望となり、生きる力になるということです。さらに言うなら、自分に空いた「心の穴」を埋めようとする、「足掻き」の軌跡が、「その人らしい人生」を形作っていくということです。

■しかし、「原因」なのに、なぜ「対象」というのでしょう。対象aは、実は対象のように見えるだけで、厳密な意味では対象ではないからです。「実体をもたない欠如」だからです。なぜ、「欠如」と言えるのかというと、人間の欲望は、動物の欲求とは異なり、「ことば=象徴」でできているからです。

■ことば=象徴は「モノ・ヒトそのもの―存在そのもの」の代わりであって、それ自体ではないので、究極的には満たされることのない、ロマン的幻想ということになってしまいます。だから、ラカン曰く、「欲望は存在欠如の換喩」です。ここでいう「存在」は、「僕にとって大切な存在」くらいの意味です。たとえば、「お母さん」にそばにいてほしいのに、いない。欠如している。だから、「ママ」という言葉で埋めようとする。その言葉でお母さんを思い出す。だけど、それはお母さんそのものではない。象徴化されてしまった「お母さん」―「母なるもの」は、永久に「実現」しない憧憬の対象になるのです。ですが、それだからこそ、人は「何かが足りないという、その何かsomething」を求め続けられるの
です。これが、動物の欲求にはあり得ない、幻想的な欲望のありかたです。

キルケゴールは、失恋のショックをなんとか昇華しようと自分の哲学をつくりましたし、パウロ親鸞も、自分の「悪」や「罪業」といった「存在欠如=心の穴」をまっ正面から引き受けることを通して、「キリスト教」や「浄土真宗」と言った「偉大な象徴体系」を創りだしたわけです。そしてそれが、「宗教家」としての彼らを形作ったのです。

千年女優の場合、「鍵」と「鍵の君」が対象aにあたるのだと考えてよいと思います。存在の欠如―ぽっかり空いた自分の穴が、人間の欲望を象徴的にドライブさせるのです。「鍵の君」は、「対象」のように千代子の向こう側にあり、その後ろ姿を「追い求めさせ」ます。同時に「欲望の原因」として、彼女の欲望を象徴的に駆動し、「千年女優」たらしめていたのです。そして、死んでみてから分かることなのですが、「鍵の君」にたどり着けたかどうかは、結果としては重要ではなかったということです。それを追いかけ、追い求める過程が、その人の人生となっていくからです。(「死んでみて初めてそれがわかる」、ということが重要。生きている間は「真剣」そのものなのです。遊びが真剣に遊んでこそ楽しいように。)

ラカンの人生論。それを一言でいうと、「自分固有の欠如を引き受けよ」、ということになるでしょう。ラカン精神分析家のブルース・フィンクは「運命の主体化」と言いました。ラカン派哲学者・ジジェクの本のタイトルを借りて言えば、enjoy your symptom!「君の『ビョーキ』を享楽せよ!」、ということになるのでしょう。

■「人生に欠如はつきものだ。その穴は、究極的には決して埋まることがないだろう。しかし、それは、君固有の仕方で歪んだ、空白のキャンバスのようなものだ。そこからどのような欲望の形を描き出すかは、君次第だ。」ラカンはきっとこのように言っているにちがいない、と僕は受け取っているのです(全然ちがうかもしれないけど)。でも、「欠如を真剣に追い求める過程が人生になる」ってのも、なんだかはかない話ですね。(4/23午後)