漂流日誌

札幌のNPO「訪問と居場所 漂流教室」のブログです。活動内容や教育関連の情報、スタッフの日常などを書いています。2002年より毎日更新

「欲望をもった他者として訪問する」こと!?

■ボランティアスタッフの坂岡です。今日は訪問のことについて書こうと思います。

■『ひきこもりはなぜ「治る」のか?』(斎藤環ちくま文庫)という本を読んでいると、精神分析ジャック・ラカンの「欲望は他者の欲望である」という言葉が解説されていました。ラカンによれば、「完全に個人的な欲望はありえない。」「欲望は勝手に湧いてくるものではない。」のだそうで、「他者が欲しがるものを欲しがる」という関係的な本質に持っているそうです。

■そして、たとえば「ひきこもり」の人に「他者との関係をもってほしい」と願うなら、まず自分が人付き合いを積極的に楽しんだらよいのだ、と書いてありました。そして、自分の欲望を積極的に表現し、「欲望をもった他者」としてふるまえ、と書かれていました。なぜなら、欲望は人との関係の中で「交換することによって感染する」性質のもので、一方的に与えたり、個人の中から勝手に湧いてくるものではないからです。(たとえば、「外に出ることを欲せよ!」と命令することは、「欲望」の本質からして原理的に不可能。)

■以前、北海道教育大の平野先生の講演について書きましたが、その中で、「人と関わるのって楽しいよ」という風に振る舞う人が身近にいることで、その人も、「人と関わるのって楽しいのかな」と思えるようになる、という実例が語られていました。これも、「欲望の感染」の一例なのでしょう。

■自分のことをふりかえってみると、初期は妙な「責任感」をもっていて、「相手にあわせなければ」「相手を尊重しなければ」「それが訪問者としての責務」と肩肘張っていたような気がするのです。「欲望をもった他者としてふるまう」どころか、むしろ「禁欲的な他者」として振る舞っていたのではないかと思うのです。「自分の欲望」を隠して、「相手の欲望」に「合わせよう」としていたのです。(その結果、逆にこちらの無自覚な欲望を遠回しに「押し付け」たりしてしまう(^_^;))

■訪問の中で、自分の楽しみや喜びを見つけること、何もすることがなくなった時も、相手との関係の中で「自分なりの欲望に忠実に振る舞う(?)」ことが大事なのかもしれないと思いました。時には、「自家発電」的に欲望を自給自足しなければならないこともありますが、関係の中で自足的に存在すること、欲望をもった他者として存在することは、自分も相手も楽にするのではないかという気がします。そうやって気楽に過ごすうちに、お互いの欲望を交換し合い、触発し合うことを通じて良い感じの化学反応が起こり、楽しい時間になれば、それはラッキーな日だと思います。

■というか、「禁欲」というあり方自体そもそも不可能で、人間は欲望をもたざるを得ない存在なのではないか。そうであるなら、「自分は相手とどんな関係性を望んでいるのか」という欲望の形を自覚・検証して、そのうえで、相手との関係においてどのような形で「自分の欲望に忠実に振る舞う」のか、その「表現形」を考える方が理にかなってるのではないか、という気がします。「自己満足的に」……とまで言ったらさすがにアレですが、「自足的にそばにいる」、「欲望をもった他者として訪問する」という言い方は「アリ」なんじゃなかろうか……。また長くなってしまいました。すみません。いつもはこんなにややこしいことは考えてないのですが、あらためて書くと考えこんでしまいます。