漂流日誌

札幌のNPO「訪問と居場所 漂流教室」のブログです。活動内容や教育関連の情報、スタッフの日常などを書いています。2002年より毎日更新

キムチの日

■暖かい日。漂着教室に来た子とも「暖かいねぇ」などのほほんと話しつつご飯を買いに行ったりした。午後、来週から漂着教室でメンタルフレンドと会うことになる人と面談。その後、訪問へ。

■夜、雨が降り、また一歩冬に近づくのだなとしみじみする。冬と言えば漬け物の季節だ。ということで、帰宅後に大根のキムチを漬ける。大根は訪問先から頂いた物。ありがとうございます。そして、うまくできますように。

■履修問題の話。A渡辺さんのコメントを元に考えて見ます。
>>大学受験が絡んでいるので生徒のためにやったと思われがちですけれど、
>>根っこの部分は自分のためにやっているのでしょう、彼らは。
自分のためという点も確かにあると思います。ただ、ぼくは敢えて教師・学校以外にこれを引き起こした原因を見ていきたいと思っています。前の日誌はそのために書いたものです。教師・学校の責任についてはA渡辺さんの意見に同意します。特に、経済効率に基づく高校の統廃合計画が遠因として考えられるということまで視野を広げておくことは、実際の教育政策立案に際しては経済的観点を入れざるを得ないでしょうから、欠かすことのできない視点だと思います。

■2について
>>内申書に関して言うならば明確に「公文書偽造」の犯罪ですよね。
ですね。ところで、これまで報道ではこの視点から書かれているものを見ていない気がするのですが、どうでしょうか。ここを市民団体にでも突っ込まれて集団訴訟を起こされたら大変ですよね。

>>教育機関法令遵守に一番無神経であることが社会にとってよいことなのでしょうか
うーん。これは自分の立場としては決まっているんですが、一般論としては微妙なんだと思います。ぼくは不登校を認めた上でどのように生きていくかを子供自身が模索することを応援しているわけです。言い換えると、法令遵守*1よりも個人の幸福追求が優先されるべきシーンがあるだろうから、その時にルールを曲げて生きる人をバックアップしていくことになる。そういう柔軟さをもった社会を望みます。結論として、前回の日誌で書いたようなことになるわけです。とは言え、教育機関の果たすべき役割として、遵法精神を育むことは求められるべきだろうとも思うのです。

■現在の状況下では、入試・就職・昇進等試験絡みのことが重大な人生の岐路として位置づけられます。それは、もはや個人の思想とは無関係で、むしろ思想の幾ばくかを束縛するロープとして存在します。そして、このような状況を作り上げ強化しているのは、とりもなおさず国民自身でしょう*2。最近は特に「学力低下」というキーワードによってここが強調されていますし。つまり、ぼくには、教師・学校に対して世間があまりにも強く「学力」を求めるシステム形態をとっているように思えます。が、このような状況下でも指導要領は純粋無垢に本来的・理想的な人間教育を求めてきます。社会が国民に施そうとしている「教育」*3VS文書の中にしかない「教育」、という二つに向き合う教師・学校が「学力」を求めるのは至極当然の成り行きだと僕は思います。故に、社会が教師・学校に「学力」を追求するしかない環境を作った*4とぼくは解釈し、彼らに対し一概に「無神経」と責任を負わせたくないのです。

■3について
>>今回のことで大多数の生徒のためなら文科省の指導を無視してもよいと言うことになると、
>>とばっちりを受けるのは少数者ですよね。

これについては考えが足らなかったところです。自分の書いた中だと、

>>・ただし、生徒はその科目を学習する権利が保障されねばならない。希望者には補習を行う。

これを拡張することになります。今回の問題を「学習権の保障」という観点から捉え、今後の対策を行うことが必要ですね。すいません。ちょっと頭が回らなくなってきました。今日はここまでで止めておきます。

*1:児童生徒は登校しなくてはならないという法律はありませんが、「義務教育」を「強制教育」と解釈する人からは不登校は法令違反と捉えられることでしょう

*2:もっとも、この状況を変化させるのも我々自身ですが

*3:しかも、この「教育」を施すのはすでにその「教育」により再生産された人生を送る教師なわけです

*4:この文、1日に訂正。訂正前は「教師・学校は指導要領という法令よりも社会の求める「学力」を求めたのだ」