■仕事柄、ヤングケアラーとの関わりもあるので、札幌市がやっているヤングケアラー支援研修を受けることにしたのが、結構前。
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これを受けるためには北海道社協のケアラー支援推進センターが開催するケアラー支援関係機関職員等研修を履修している必要があり、昼からそれに参加。
■札幌の方はヤングケアラー支援だが、道社協の方の研修はケアラー全般についての研修になっていた。受講するまで知らなかったのだけど、2022年に北海道はケアラー支援条例を制定していて、それに基づいた施策の一つがこの研修だった。
■ケア、即ち介護というと、介護される側に対しての支援がメインになっていて、介護する側の支援というのは顧みられることが少なかった。家族が介護するのが当然という社会の風潮も、介護する側の透明化を強めている。しかし、少子高齢化社会の中で介護者の必要性が高まるのにその数は足りないという社会状況が生まれる中で、ヤングケアラーや介護離職といった形でその歪みが顕在化してきている。ケアラー支援条例は、こうした状況に対応するべく、介護される側の支援だけでなく介護する側の人生を望む形にするべく支援が行われる社会にしようと制定されている。
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■研修で一緒になった人は、多くがソーシャルワーカーだったりケアマネージャーだったりと福祉の専門家の方々だった。そうした方々が異口同音に「ケアラーの自己実現」という視点が新鮮だと話していた。例えば、子供がしっかりしているとその家庭の介護能力は高いと捉えるが、介護をしている子供自身の成長を見ているかというとそうでは無いという話を聞いた。自分の立場だと、子供側の支援から入ることの方が多いので、この感覚の違いは正に構造に由来するものだと感じた。自分が身を投じている仕事に専念するほど、ものの見え方が固定化していることに気付くことが難しいとも言える。ただ、固定化したものの見方になるのは、それが仕事として構造化されていることに由来するのだし、一意専心しているが故の事象、つまり、個人の善意の現れであることすらある。しかし、それが介護をしている子供の人生や思いを無視してしまう背景になる可能性もある。第三者として関わる時、その立ち位置は本当に難しい。
■というよりも、第三者というのはスタート地点での話であり、関わりを始めればどちらかに比重は偏るというのが正確な見方になるのかもしれない。その偏りを選ぶのは自分であるからこそ、もう片方の人生や思いを無視しないような意識を持つことが必要になる。この件、年末来考えている話にもつながることだと思う。
■さて、そちらについて言えば、漂流教室で不登校新聞を取り続けるのはそろそろ止めてもいいのではないかと思っているのだが。色々あったけどね。(水曜日)