■『ケイの凄春』が全巻無料で読めると知り、朝の5時までかけて読破。おかげで眠い。
■一度読んでいるはずなのに、全然覚えていなかった。構成はおなじ小池一夫・小島剛夕コンビの『子連れ狼』とほぼ一緒。というか、あえて似せているんじゃないか。お家断絶に追い込まれた主人公が復讐のため刺客を生業に旅をするのが『子連れ狼』。苦界に落ちた許嫁を探すためを士道を捨て旅に出るのが『ケイの凄春』。裏表のような関係になっている。■『子連れ狼』の拝一刀は水中で無類の強さを発揮する水鴎流のつかい手であり、『ケイの凄春』の証刑一郎は水府流水術の達人だ。どちらの作品でも江戸の町が洪水に見舞われる。拝一刀は一子、大五郎を連れて旅を続け、『ケイの凄春』では柳生烈堂(拝一刀の仇敵)のような老人がケイの許嫁を連れ回す。やっぱり意図的に重ねてるんだと思うな。だからこそ対照的な結末が光る。悲願成就のため冥府魔道の鬼となった拝一刀は、結果がどうあれ死ぬしかない。もはや人ではないからだ。一方、人であるため武士をやめた証刑一郎は新しい生活を手に入れる。
■許嫁を探し先を急ぐケイに、おなじ宿に泊まった老人がある面を見せる。こけた頬。落ちくぼんだ眼。餓鬼の様子をあらわした「痩男」の面だと話し、お手前の顔はこの面とそっくりだ。そんな幽霊のような顔ではたとえ出逢えても相手を苦しめるだけだろうと諭す。そしてケイに「面を打て」と勧める。
■そんなことをしている場合じゃない。愛する女性は苦界にいる。こうしているあいだにも客を取らされ苦しんでいる。それでも遠回りさせるのが小池一夫で、そこがまたいい。他人の面(おもて)をつくろうとしても自分の心が出てしまう。他人の面のはずが自分の顔に似てしまう。それを乗り越え、他人の面をつくれたら心労も消えているはずだと、わかったようなわからないようなことを言って、なぜか納得させられる。
■別のシーン。「映すとは水も思わず、映るとは月も思わず」。それが剣の極意だとケイは教わる。もちろん謎解きはされない。言葉でわかろうとしてもダメだ。心と身体で会得しろ。心にこの言葉を置いておけばいつかはわかる。死ぬまでわからなかったら己に剣の才はなかったと諦めろと厳しい。技術は教えられるが極意は自身で悟るしかない。他人の心を自在にするような技など人間には持てないとたたみ込まれ、いい話を聞いたような気になる。
■多分、俺はこのように考え行動するのが好きなのだ。俺のなかの道徳、あるいは修身と言ってもいい。それは俺の勝手なのでどうでもいいんだけど、他人に強要しないようにしないとなーって、日誌にこんなに書いといて言えた義理じゃないな。
■ちなみに「映すとは~」は剣聖、塚原卜伝の言葉だとか。と、こういうこと言い出すと修身が蘊蓄にすり替わってなお鬱陶しい。