漂流日誌

札幌のNPO「訪問と居場所 漂流教室」のブログです。活動内容や教育関連の情報、スタッフの日常などを書いています。2002年より毎日更新

放っといて下さいませんか?

■10月7日の相馬さんの日誌にこんな事が書いてある。

漂流教室の活動を説明することは難しい。不登校の子のもとへ訪問と言いながら、学校へ通っている子も利用している。「子」だけではない。20代の利用者もいる。AでもBでもCでもない、「じゃない活動」だが、あえて表現すれば「一個の人間と一個の人間がたまにおなじ時間を過ごす」活動といえる。

■私なりに漂流の活動を表現するならば、「一個の人間と一個の人間がたまにおなじ時間を過ごす」。これに加えて一緒に居ながらも「自分の事を放っておいてくれる人がいる」が加わるかな。

■例えば不登校の子が現れたときに担任の先生や親の行動は大まかに分けて大体二つ。一つは、この子はきっと何かの病気だと慌てふためいて色々相談機関や医療機関にその子を引きずり回す。いわば不登校の理由付けをしたくなる。二つ目は、世間体や学校からの圧力が掛かりその子に学校に行くように強要する。その子を「単純」に休ませるということをする先生や親はそうそういない。いわばその子を一旦放っておいてくれない。これでは家に居たってその子も気が気で無くなり、親や先生の気持ちを無理に汲んで学校に行こうとする。本末転倒である。


■訪問は(私の場合は)こちらから何かしようなどと積極的にはしない。その子の後ろから一時間その子のゲームをしてる姿を眺めて凄い操作技術だと感動してるだけである。一緒の空間、同じ時間に居ながらも放置してくれる人がいる。色々自分の好きなことが出来る。スタッフと一緒になにかすることもできる。そして変わっていく。そして自分がふっと見えてくる瞬間がある。それは人間全員に言えることかもしれない。それこそ相馬さんの言う「目的なく一緒にいる」ということ事ではないのだろうかと私は思う。かなり偉そうな事言って気がする。気に入らねー。

■そんな事して何の意味があるのですか、と思う人がいるのですがはっきり言って私にだってわかりません。他人から見たら後ろからゲーム見てるだけですからね。でもよく考えてみたら73年前の戦争という大きな出来事の意味すら未だ研究してるのですから、漂流教室の意味なんて500年くらいはかかるでしょうね。まぁ500年と言わずとも50年くらい経てば利用者がきっと好き勝手に評価してくれますね。意味なんてどうとでもなる。力では求められない。

■タイトルの「放っといて下さいませんか?」ってなんか日本語おかしいですよね?でもそこが草野マサムネのいいところ。私の中の漂流のイメージ曲。スピッツのアルバム、小さな生き物で潮騒ちゃん。

■”偉大な何かがいるのならひとまず放っといて下さいませんか?”