漂流日誌

札幌のNPO「訪問と居場所 漂流教室」のブログです。活動内容や教育関連の情報、スタッフの日常などを書いています。2002年より毎日更新

不登校の復権

■「不登校の脱問題化?」という記事を見つけた。不登校の児童生徒の数は変わらないのに児童相談所における相談件数(保護者)は減っている。それは不登校に対する意識の変化を示しているのではないか、というもの。
http://tmaita77.blogspot.jp/2017/06/blog-post_8.html

■「不登校が特別なものではなくなった」という話は聞く。独学の方法も増えた。文科省も「リスクはある」としながらも「不登校は問題行動ではない」と通達を出した。一方で、長期休み明けの自殺はあとを絶たず、学校を休むことへのまなざしは優しくはなっていない。

■思うに、不登校の相談が減ったのではなく分散したのじゃないか。たとえばスクールカウンセラー。1999年に2,015校の配置だったのが、2014年には23,800校と10倍以上に増えている。2002年のスクールカウンセラーへの相談割合は全体の28.2%だが、2016年は41.0%まで増えている。または病院。2002年に全体の6.5%だった相談が2016年は9.3%。発達障害の認知が広まったことと関係あるのだろう。(統計を元記事と合わせたかったのだが発見できず)

■ほかにも相談先が増えたこと。不登校自体ではなくその「背景」へ意識が向くようになったこと。それが児童相談所への相談が減った理由じゃないか。2009年11月の日誌で不登校分科会のレポートが減ったことについてこう書いた。

レポートがこうも減ったのは何故か。「不登校」という問題の立て方が限界なのだろうか。不登校は現象でしかない。その奥に発達障害があればその分科会に、学校のあり方に問題があれば学校づくりの分科会に行く。地域での活動や青年期に焦点をあてた分科会もある。「不登校」という入口を通過して、みんなそれぞれの課題に辿り着いたのかもしれない。

「脱問題化」というよりは「問題の細分化」か。ただ、それがいいことかといえば難しい。病気が治すものから予防するものになって、結果、普段の生活が「理想」に向け「管理」されるようになったように、不登校相談の細分化は「早期解決」に回収される。上に載せた日誌の続き。

しかし、入口としての不登校はやはり押さえておくべき視点だとも思う。問題を別個に切り離すことと、総体として扱うことは両方必要ではないか。なぜなら人は、何もかもひっくるめた総体で「人」だからだ。いろんなものが絡まり、結果「不登校」という現象を引き起こした子供を、絡まったまま丸ごと受け容れることは、絡まった問題をほぐしていくことと同じくらい重要だと思う。

不登校復権が必要なんじゃないのかな。「行きたくないから行かない」でいいじゃないか。それで親が離婚したり、親戚づきあいがなくなったり、親子心中を考えたりするような世の中がおかしいんでしょう。一生懸命「問題」を腑分けして改善させるなんて努力の方向が間違っている。「学業の遅れや進路選択上の不利益や社会的自立へのリスクが存在することに留意すること」なる文言が消えてようやく「脱問題化」だと、ここから先は以前書いたことの繰り返しなのでおしまい。