漂流日誌

札幌のNPO「訪問と居場所 漂流教室」のブログです。活動内容や教育関連の情報、スタッフの日常などを書いています。2002年より毎日更新

自己責任と自己決定

■G型大学、L型大学と聞いたことのない言葉が出てきて、なにかと思ったら、文科省有識者会議での発言らしい。大学をグローバル経済圏(Gの世界)とローカル経済圏(Lの世界)に分け、G型大学は世界にうって出られるエリート教育に、L型大学は学問ではなく職業訓練に特化しようという提案だ。教育をコストとその回収からしか見ない、非常に痩せた考えだが、この間の40人学級しかり、最近の「教育改革」はたいていこのラインに乗っている。個人が個人の幸福と成長のため学ぶ、という視点がない。(おそらく、例のフリースクール支援にもない)
※参照:http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chousa/koutou/061/gijiroku/__icsFiles/afieldfile/2014/10/23/1352719_4.pdf

■恵庭で行われた登校拒否・不登校を考える全道のつどいに行ってきた。基調講演で道教大の庄井先生は、子供や若者が「かけがえのない自分の人生の主人公になる」ことの重要さを説いた。そして、「自分の物語(self-narrative)」を紡いで生きるために、「共存的他者」が必要だと話す。子供のおずおずとした、または毅然とした「自己決定」を援助する構えが共存的他者には求められる。庄井先生言うところの「となりのトトロ」「押し入れの中のドラえもん」の姿勢。いつもそばにいるわけではない。先回りして手伝うこともない。本当に困ったときだけ、ふっと隣りにいる。そんな他者に後押しされ、人は自分の人生を生きていくことができる。

■「独立した人格への尊敬」という言葉もあった。たとえばG型大学、L型大学といった考えに、人格への尊敬はない。自己決定の援助もない。短期的な経済に役立つかどうか、という見方しかない。代わりに「自己責任」がある。

■「自己決定」と「自己責任」は似たように見えてまるで違う。「自己責任」とは、つくづく自分でものごとを決めさせないようにする言葉だと思う。ある一定のレールは敷いた。そこを通るも通らないも自由だが、通らないならなにも保障はしない。自分で一切の責任をもつ覚悟があるなら選べばいい、というのが「自己責任」の理屈だ。「自己」という言葉を使いながら、世の中の要請に沿うことを強いる。そこに変化や成長はない。手助けもない。

■しかし人は、特に子供は変化し成長する存在だ。それに似合うのは「自己責任」ではなく「自己決定」だろう。漂流教室の進む方向も。

■つどいの参加者は144名だったという。ここ数年でもっとも多い。恵庭という地理がよかったのか。教育をめぐる情勢がきな臭くなっているからなのかもしれない。ちょっと注意して見ておきたい。(10/27夜)