■火曜水曜は寒かった。そして明日からは暑い。ちょうどいい気温というのはなかなかない。
■街を歩けばライラックが咲いていて「リラ冷え」なる言葉を思い出す。もしかして先日の寒さはリラ冷えだったのか。本来は5月下旬に来るものだが季節が全体にズレているし、なんてったってライラックが咲いているんだからリラ冷えでいいのかもしれない。という内容をこれまで何度も日誌に書いていた。記憶力に問題がある。
■このあいだ『荘子』を読んでいたらおもしろい文があった。
人莫鑑於流水
而鑑於止水
唯止能止衆止
「人は流水に鑑みるなくして止水に鑑みる。ただ止のみ能く衆止を止む」。「明鏡止水」の「止水」だが、澄み切った心境を表すこの四文字熟語と『荘子』の内容はちょっと違う。
■王駘は罪を犯し足切りの刑を受けた。なのに多くの弟子に慕われ引きも切らず人が訪れる。王駘はなにをするわけでもない。それなのに人は満足して帰途につく。それはなぜかと弟子が孔子に尋ねる(孔子は『荘子』のなかでいろんな役回りをさせられる)。その答に「止水」が出てくる。曰く「人は流れる水を鏡にはしない。静止した水に己を映す。静かな者だけが静けさを求める者へそれを与えられる」。
■個人の内面より関係性を語っているように読める。人は王駘と過ごす時間で自分を映し、そこになにかを見つける。これを読んで漂流教室の訪問が浮かんだ。なにをするわけでもない。ただ一緒にいて、しかしお互いになにかを得る。といってそれを目的にするわけでもない。目的があればそこへ向かう動きがある。動けば水面に波を呼ぶ。それでは自分が映らない。
■とはいえ王駘の境地に至るのは至難の業だ。生死にすら囚われず天地と一体になるのが『荘子』のいう聖人だから、凡人には真似できない。ただ、世間の価値観から距離を置く点は通ずるものがありそうに思う。世の中は少々騒がしい。下は10年前に書いた日誌。
■訪問は漂流教室設立からの活動なのに、四半世紀近く経ってもまだうまく説明できないでいる。2300年前の中国の古典にヒントがあるのは楽しい。