漂流日誌

札幌のNPO「訪問と居場所 漂流教室」のブログです。活動内容や教育関連の情報、スタッフの日常などを書いています。2002年より毎日更新

雪の降る日に

■なんとなくわかっていたと思うが、一昨日のエントリーは例の新幹線での事件を受けて書いた。容疑者についてはなにも知らない。「俺は人と違う。生きてる価値がない」と語っていたという報道に、『ヒミズ』の主人公が重なった。

■「普通」に固執すると、過剰に周囲に適応せざるを得ない。「社会」が「自分」の上位に来るからだ。常に自分を律し、失敗は自己管理の破綻と受け取る(=自己責任)。そうやってなんとか社会に留まろうとがんばっていたはずなのに、徹底した自己責任の論理は、ときに社会から自分を排除してしまう。

■お前はいま正常な判断ができなくなっている。ほかにも道があるのに、勝手に自分を追い込んで、一番ヤバそうな道を選んでいる。生きてさえいれば10年後に笑って話せるようなことかもしれないと言うヤクザに、『ヒミズ』の主人公はこう毒づく。「…何が10年後に笑える話だ…3日先も目にうかばねぇよ」。

■社会から排除されるのはおそろしい。不安は人を近眼にする。それに打ち勝つ方法は、実はすぐこのあとに示されている。

■その夜、町に雪が降った。突然のことに主人公ははしゃぎ、「降れ降れ! 20メートル降れ!!」と駆けまわる。このとき主人公を覆う「不安」は消えている。ここでも一つ目の怪物があらわれるが、主人公は怪物に雪玉を投げ打ち払う。

■雪ではしゃぐ行為に意味はない。評価や価値にとらわれず、目の前の「いま」に没頭する。それだけが不安を退ける。だが、雪はすぐ溶け、世界はいつもの姿に戻る。

こうして生きてみるとわかるのだが、めったにはない、何十年に一回くらいしかないかもしれないが、「生きていてよかった」と思う夜がある。一度でもそういうことがあれば、その思いだけあれば、あとはゴミクズみたいな日々であっても生きていける。だから「あいつも生きてりゃよかったのに」と思う
中島らも『僕に踏まれた町と僕が踏まれた町』

■『ヒミズ』を読み返して、少年〜青年マンガによくある場面がないことに気がついた。どうでもいいようなことで、その場にいるみんなで大笑いするシーン(『さくらの唄』にはある。まあ、そのあとこっぴどく壊されるのだけれど)。届く言葉は見つけられないが、雪の降った日にたまたま居合わせるくらいは、ひょっとしたらできる、のか。