漂流日誌

札幌のNPO「訪問と居場所 漂流教室」のブログです。活動内容や教育関連の情報、スタッフの日常などを書いています。2002年より毎日更新

壁の存在

■日生連全国大会「中学・高校・大学教育」分科会で、いまの大学生がおかれている状況の話になった。大学生のボランティアスタッフは漂流教室の生命線なので他人事ではない。さて、彼らは「即戦力」の名の下に、企業から求められる経験、資質を手に入れようと必死で頑張っている。余暇を削り、睡眠時間を削り、学業の時間を削って「求められる人間像」の獲得に励む。そこに不況とバカ高い授業料と借金でしかない奨学金が追い打ちをかける。なのに、彼らはそれでも「己が至らないから」と考え、努力する。

■似たような話を知っている。男女雇用機会均等法が制定され、「女性の社会進出」が「進んだ」ころだ。「働く女性」の中には家事も育児も完璧にこなし、職場でも「男性並みに」働く「スーパーウーマン」がいた(かっこの多さに何かを汲んでください)。働く女性かくあるべし、ともてはやされた。その理屈が女性全体に行きわたって、同じものが今度は学生に降りてきたんじゃないのか。働く若者はかくあるべしと。

■しかし、「男性の働きかた」は、会社で働くこと以外をすべて誰かに委ねて得たものだ。会社仕事にのみ専念できる環境でつくりげた基準を、それ以外も担いながら満たすなんて(ごく一部の例外を除いて)できるわけがない。この壁を乗り越えて来いと言ったって無理なのだ。

■そこでふと『進撃の巨人』を思い出す。斜め読みなのであいまいな記憶だが、『進撃の巨人』で街を囲む壁は、巨人から街を守るためではなく、王政の必要によってつくられたという展開になっていたはず。「壁を守れ」も「壁を乗り越えて来い」も、壁の必要性を疑わないという点では一致している。「乗り越えて来い」とは言っても「壊して入って来い」とは言わない。力あるものが「壁」をつくり、「壁」の存在を絶対のものとして、ほかの者に押しつける。主人公が巨人(壁を壊せる者)であり壁の中の住人なのは、どういう意味なのか。『進撃の巨人』人気の理由を掘り下げてみたいよね。(8/14午前)