漂流日誌

札幌のNPO「訪問と居場所 漂流教室」のブログです。活動内容や教育関連の情報、スタッフの日常などを書いています。2002年より毎日更新

見つけたこと・習ったこと・教わったこと

■この間のミーティングの内容を知ろうと思ったら怒髪天のことしか書いてなかった、とスタッフに叱られた。小松さん報告ありがとう。


■で、安心してまた違う話をする。中学生に理科を教えていてふと思い出した。二つの酸素がついた炭素だから二酸化炭素。あっ。CO2の「O2」ってそういうことなのか。そう気づいたときは興奮したな。H2OよりOがひとつ多いから過酸化水素水なんて、思わず授業中に声を上げそうだった。

■そういう「発見」は結構あって、例えば掛け算で、掛けられる数と答は必ず単位が同じになる。100円のリンゴを3個買ったから300円。答は300個にはならない。または時間と速さと距離の関係。ある日、「km/h」という単位を見ていてふいに気がついた。このスラッシュは分数の線なんじゃないの。ということは「km」は距離で「h」は時間だから、速度は距離÷時間で出るんじゃないか。わー。やり方が単位に書いてあった。

■星が一時間に動く角度や一ヶ月で動く角度の求め方を発見したときも嬉しかったなー。

■こういうことを授業で言ってなかったとは思えないので、よっぽど話を聞いてなかったんだろうか。授業で習ったことで覚えているのは操作方法や手順。国語で「本文から書き写せ」と指示されたら、そのまま書き写す。もし誤字脱字があっても、それもそのまま写す。式を書くとき「=」は横に並べない。縦に揃えて書いていくetc…。

■カッコよく言えば、俺にとって「学校で学ぶ」ということは、教科書に書いてあることをもとに自分で何かを見つける、ということだったんじゃないかと思う。なにも与えられなければ発見は難しい。材料を与えられ、材料の扱い方を授業で習う。それでアレコレやってみて、なにか見つける。学年が上がるに連れ材料の種類は増え、扱い方は難しくなる。微分積分の扱い方はとうとう習得できなかった。だから微積での発見はない。

■「なぜそうなるのか分からない」という子供の問いに、俺がいまいちピンと来ないのは、それを自分で見つけるために勉強するんでしょ、とどこかで思っているからだな、きっと。

■ちなみに「学校で教わったこと」というのもある。間違いを直すときに消しゴムを使うな。赤ペンで横に書け。解けた問題は忘れていい。100点のテストは価値がない。教科書に線を引くな。調べれば分かることは覚えなくていい。ノートは写すのじゃなくつくる。数学の成績を上げたかったらたくさん本を読め。これらは学問に対する心構え、姿勢みたいなものか。

■そうなると「学力評価」ってなんなんだろうな。操作の熟練度?

■もちろん、そんなにきれいに分類できないものもある。逆上がりは腕をたたむ、とか。そう言われて急に逆上がりができるようになった。身体の操作方法とも言えるけど、俺の中では自分で発見することなんだよな、これ。発見を習うってことはあるんだろうか。または、できるようになること自体が「発見」なのか。

■ところで、小学6年生でつるかめ算を習ったとき、なにか別の解き方を発見した記憶があるのだが、それが全然思い出せない。かえって面倒な解法で、全然美しくはなかったけど、自分で見つけたという激しい喜びだけはよく覚えている。うーん。どうやって解いたんだっけ。なんだか思わぬものを足していたような…。