漂流日誌

札幌のNPO「訪問と居場所 漂流教室」のブログです。活動内容や教育関連の情報、スタッフの日常などを書いています。2002年より毎日更新

なぜできてるのか

■自身に不登校経験もひきこもり経験もないので、彼らの心境は分からない。仕方ないのでいつも、「なぜ自分はそうならなかったのか」と考えることにしている。で、このインタビューになるほどと思った。

つまり、“障害者”というのは、「依存先が限られてしまっている人たち」のこと。健常者は何にも頼らずに自立していて、障害者はいろいろなものに頼らないと生きていけない人だと勘違いされている。けれども真実は逆で、健常者はさまざまなものに依存できていて、障害者は限られたものにしか依存できていない。
(中略)
実は膨大なものに依存しているのに、「私は何にも依存していない」と感じられる状態こそが、“自立”といわれる状態なのだろうと思います
「自立は、依存先を増やすこと 希望は、絶望を分かち合うこと」

■一時期、学校の好きだったところを挙げてみよう、と提案していた時期があった。自身を振り返ると、登下校時だったり休み時間だったりクラスの女の子だったり放課後だったり、小さな楽しみがいくつもあった。そういうもののために学校行くのもありだよな、と思って提案したのだが、いろいろなものに少しずつ頼っていたから学校に行けていたと、直感的に理解してたのかもしれない。もしかしたら。

■ここでの自立は自由と読み替えがきく。依存先が増えることが自由に繋がるなら、依存先を限定すると不自由になる。学校機能から学力と社会性を除いて議論をしよう、と提案したこともあった。学校の役割がそのふたつからしか語られないことがイヤだったのだが、そうやって学校の機能を限定していくと、学校に行く動機がそれしかなくなってしまう。依存先が限られひとつひとつへの依存度が高まるから、どっちかでつまずいたら、もう動きがとれない。不自由な状況が生まれる。

■「自分はなぜできたのか」と考えることで、自身が頼ってきたものや人、環境を見直し、「それを誰もが使えるようにするにはどうすればよいか」と考えることで、ほかの人の不自由を減らす。「なぜできないのか」という問いは一旦よそに置いておこう。自分ができている理由を問おう。ずっとやってきたことがようやく言葉になった。どうしても直感で処理してしまうところが多いので、こうやって納得できる言葉に落としてくれる他人がいるのはありがたい。