漂流日誌

札幌のNPO「訪問と居場所 漂流教室」のブログです。活動内容や教育関連の情報、スタッフの日常などを書いています。2002年より毎日更新

メガマック

■天気は晴れと書いたが、札幌から一歩出ると大雪だったようだ。石狩の訪問先から昼前に「今日、この天気では来れないでしょう」というメールが来た。午後には晴れたので問題無かったが、冬はほんとお天気次第だよ。

■通信作成後、メガマックを食した。パン肉肉パン肉肉パン、という構成のハンバーガーだ。ただ、これが食べにくい。半分ほど食べたところで崩壊してしまった。後は手をマヨネーズと肉汁でべたべたにしながら食べた。うまく食べることが出来た人、居たら食べ方をご教授ください。

■訪問は三件。夜、中古ショップで久しぶりにCDを購入。イギー・ポップはいい。

■いじめについて日曜の新聞で専門家二人が語っていたのを見て思うところあり。明日、アウ・クルで新聞を見ながら追記しよう。

■14日の北海道新聞二面「対論」で北星学園大講師田中敦氏と教育再生会議担当室長義家弘介氏が「いじめ加害者の出席停止」について考えを述べている。

田中氏…いじめる側の出席停止処分には賛成できません。かえって憎しみの感情を駆り立て、薬物や引きこもりなど、別のものにはけ口を求めかねません。いじめが再生産される恐れさえあります。誰かを排除するのではなく共生することです。
(中略)
心の傷が深いほど、被害者が学校に戻るのは苦しいでしょう。しかし、人は、人とのかかわりの中で自分を認めることもできます。加害の側を出席停止にして、教室以外の場所で教育するという意見がありますが、「いじめは許されない」ことを実感させるのに、人との交わりは欠かせません。
(中略)
一方、いじめられている側に「強くなれ」という声もあります。でも、人間は弱い。もし強くなれるとすれば、支えてくれるものを持てた時です。だからこそ、共生の視点が必要なのです。
(中略)
いじめの解決には時間がかかります。教員を増やし、子どもをケアする体制を整える必要があります。その際、「使命感のない教師はいらない」との強迫観念を教師に与えてはいけません。教師も強くない。教師が病んでいては、子どもに良い影響はありません。

義家氏…現代のいじめは、昨日の加害者が今日の被害者になるロシアンルーレットのようなもの。だから加害者と被害者のケアに加え、傍観者である残りの多数を含めた集団をどうケアするかが重要なのです。
(中略)
大変な被害を受けているいじめられた側が、転校や不登校、果ては自殺にまで追い込まれるのは理不尽です。
(中略)
本当はいじめる加害者の側をこそ出席停止にして、しっかり教育しなければならないのです。出席停止というのは、いじめに対して毅然とした対応を取るという姿勢を示すことです。何もしないで放り出すわけではありません。
(中略)
まず加害者全員を出席停止にし、教室以外の場所に集めて「いじめは許されないことである」と徹底的にたたき込みます。同時に被害者をより強くするケアもしなければならないし、見て見ぬふりをしていた多数の傍観者の意識を変えることもしなければなりません。教育が終わるまで加害者を教室に戻してはいけません。
(中略)
私が言ったことを教育現場で実行するには、教師を増やす必要があります。教師個人の負担も重いでしょう。でも、厳しいかもしれませんが、使命感がない人間は教師になるべきではないとも考えています。

■田中氏の語る、排除ではなく共生を探ることがいじめを無くしていく道であるという説にぼくも賛成だ。それは、いじめは、相手の行動・有り様を自分の価値観のみで評価して蔑視し嘲笑することに基づいており、相手の有り様を認め尊重すること無しに、いじめが消えることはないと考えているからだ。そして、これは多分義家氏も同じように考えているのではないだろうか。少なくとも、「上辺でもいいから、いじめをなくせればいい」とは思ってないだろう。なぜなら、義家氏の語る「出席停止」は懲罰が目的なのではなく、「教育」のための手段として出席停止せよ、と主張しているからだ。それは加害者側の心の変化を導くことを、義家氏が考えているという証左だ。ただ、明言されていないということは、そこまで意識していることではないかもしれないが。

■さて、実践となると、義家氏の語る方法以上のものを田中氏は提示できていない。共生すると言っても、理不尽な扱いを受けてきた被害者がその相手をまず受け入れるということは困難だろう。だからこそ、まず引き離した上で指導を行い、語り合う前提が出来たところで共生に向けて活動を始めるという計画があるのだろう。田中氏も日本スクール・ソーシャルワーク協会理事なのだから、共生に向けてのノウハウはあるはずだ。是非語ってもらいたいものだ。

■ただ、義家氏の「徹底的にたたきこむ」「被害者をより強くする」といった言葉に、田中氏はひっかかるものがあるのかもしれない。引き離した上で、相互理解に必要な態度とスキルをそれぞれが身につけることが必要だと思うが、義家氏の語り方では何やら懲罰的・精神論的な話でおしまいな感がある。この点は、より具体的に何を行うのか語られないとならない。

■ただ、ここまでの話は加害者が少数の場合であり、クラスのほとんどがいじめに関わっているような加害者が多人数の事例では、また対応が異なってくるだろう。

■二人とも最後に教師の有り様について語っているのだが、これはあまり追いつめるなという田中氏の言葉に原則賛成。ただ、義家氏が「使命感の無い」という言葉で語るような、教師に向いていない人がいるのも知っている。いじめ対応のようにパワーの必要な問題に関わる教師には、是非「使命感のある」人が携わって欲しいものだ。

■この記事ではまるで対立する二つの考えみたいに扱われていて一見相容れない田中氏と義家氏の考えだが、実は通底するところもあるとぼくは思った。二人とも、加害者・被害者、そして傍観者・教師も含めた相互理解が必要だと認識しているのだ。ただ、それを義家氏は実践からそれを体得しており、共生についてそれほど明確に意識化していないのだろう。対して、田中氏は実践について語っていないので話しが抽象的なきらいがある。それだけ相互理解の重要性に気づいているのだから、お互いの考えを理解して共生すればいじめに対する有効な方策が生まれるのになぁ。共生の重要性を訴えている田中氏から是非義家氏と仲良くなっていってほしい。