漂流日誌

札幌のNPO「訪問と居場所 漂流教室」のブログです。活動内容や教育関連の情報、スタッフの日常などを書いています。2002年より毎日更新

耳の日でもある

■3月3日は雛祭。はたまた公立高校入試の日。奇しくも今日の訪問先は全て中3。試験を受けに行った子。いたたまれなくなったのか、呼び鈴鳴らしても出てこない子。いつもの通り変わりなく過ごしてる子。それぞれの子供でそれぞれに違う。

■それぞれに違うわけだから訪問も臨機応変にしなければならないわけで、その辺、学校の先生は苦手だったりするイメージがある。昨日の市教委でそれについて訊いたところ、市で組んでいる研修があるらしい。講師の面子を聞くになかなか立派そうだ。そんなに良い研修ならうちのスタッフも参加させてくれ、と頼んだらダメと断られた。理由は、教職員研修という名目で税金で行っている事業なので、部外者を参加させると納税者から苦情が出るかもしれない、とのこと。じゃあ、俺と山田を講師として呼んでくれ、と言ったら、そういうこともあるかもしれませんね、と今度はやんわり回避された。

■実際に子供と接しないもの、例えば研修のようなものは、利害対立がない分、共同で取り組むのに最も手間がかからないと思ったのだが、なかなか難しいものだ。

■2年前に訪問してた子からメールが来る。「無事、高校卒業しました」とのこと。そうやって思い出して連絡をくれたのが、とてもうれしい。自分の身を振り返ると…不義理ばっかりだなあ。とほほ。

宿題:里親について

■中学1年の夏休み、牧場で2週間ばかり住み込みで働いたことがある。夏の牧場は人手が要る。その牧場では他にもアルバイトを大勢雇っていた。総勢20名ほどだろうか、中には外国からの留学生もいた。20人一斉の食事はなかなか壮観だった。

■どうしてこんな話をするかというと、何人もの里子を引き受けている酪農家の話を聞いたからである。たいへんうまく機能している例として、その家庭の話が出た。もちろん、里親の力量に依るところが大きいのだろうが、冒頭で述べたような牧場の雰囲気も一役買っているのではないかと思った。そこでは家庭の中に他人がいることが当たり前なのである。

■ちょっと前までは家庭の中に他人がいるのはそう珍しいことじゃなかった。小説でも落語でも見てみればわかる。居候がいて、間借りの書生がいて、下男下女がいて、丁稚奉公の小僧がいて。マンガ『サザエさん』でもノリスケが磯野家に間借りしてる時期がある。もちろん養子縁組もある。

■そうそう。「子育て=血のつながった親が子を育てること」というのも、最近になってのことだろう。「生みの親より育ての親」なんて言葉もある。貧しければ養子に出さねばならなかったこともあるだろうし、乳母をつけることも当たり前にあった。

■家の中から他人がいなくなったのはいろいろ理由があるだろうが、一番は間取りだと思う。一軒家、集合住宅を問わず、今の家に他人を入れる余裕はない。現在の住宅事情では核家族以外許されないのだ。これは制度の問題である。(少子化にも住宅事情が影響していると思う。少子化対策には貸家を増やせ)

■家庭にどんどん他人を入れましょう、という話をするつもりはない。ただ、制度の枠をはめておいて、大家族がいなくなった、と嘆いたり、反動で不必要に血縁を強調したりするのはみっともないな、と思う。在日外国人の扱いにも、これと似たカラクリがあると感じる。


本日の脳内BGM:春なのに(柏原芳恵