漂流日誌

札幌のNPO「訪問と居場所 漂流教室」のブログです。活動内容や教育関連の情報、スタッフの日常などを書いています。2002年より毎日更新

アンコウ鍋

■昨日の山田の日誌、

相手の話を受け止めることで起こる変化は、「これ」というはっきりしたものではなく、何かが変化するという程度までしか言えないだろう。つまり、相手をどうにかするまではいかないはずなのだが。ひょっとして、「…受け止めなさい」の後ろに「そうすれば、○○になるから」という言葉を想定してやいないだろうか。

ひょっとして、「…受け止めなさい」から導かれるのは「『これ』というはっきりしたものではなく、何かが変化するという程度」なんだということを前提としてやしないだろうか。それは山田には前提でも、世の中ではどうなんだろう。世間が同じように受け取っているなら、例えば教研集会などで、「受容した結果どうなるのか」というような質問が出るだろうか。

■一昨日も書いたけど、俺は話し方の技術には自分を守る意味が多分にあると思っている。でも、「相手の話すことを否定せず受け止めなさい」には「相手」については触れていても「自分」のことは書かれていない。さらに、受容という方法自体はすっかりメジャーになっているが、その後のことは案外説明されていない(まあ、『何かがどうにかなりますよ』くらいしか説明しようがないわけだけど)。ならば、受容は相手をどうこうするための技術であり、それをやれば相手は(望ましい方向へ)変わるのだ、という誤解が生まれたって当然じゃないだろうか。

「相手の話すことを否定せず受け止めなさい」だけだと、その結果として相手がこうなるといった因果関係を説くことになって、相手をどうにかする技術になってしまう。

というのはそういうこと。

■だから、そういう誤解を防ぐためにも、「自分の身を守るための技術」という側面をもっと伝えた方がいいんじゃないか、じゃあそのためにはどんなやり方がいいだろう、と思案しているわけです。(2/15昼)

■1件明日にスライドして、3件の訪問。どこでも子供たちはいろんなことを言う。有料のオンラインゲームをやれだの、カードゲームのカードをもっと買えだの、岩盤浴に行けだのと。岩盤浴はちょっといいなと思ったので、前向きに検討する旨伝えておいた。しかし、サウナに入っても2分と持たないのに、大丈夫だろうか岩盤浴

■アンコウが手に入った、ついては鍋をやるのでよかったら来い、と知り合いから連絡くる。それは行かずばなるまい。仕事が終わってすぐに駆けつける。時間も遅かったので、雑炊の一杯もすすれればいいと諦めていたが、肝も身もまだまだ残っていた。肝や身だけじゃない、皮も胃袋も、俗にいう「鮟鱇の七つ道具」を七つとも食べることが出来た。実は、山田も誘ったのだが、仕事終わりが俺よりさらに遅くしかも場所も遠くで、参加できないとのこと。せめて彼の分も食べてやるのが供養とたらふく食った。満足満足。