漂流日誌

札幌のNPO「訪問と居場所 漂流教室」のブログです。活動内容や教育関連の情報、スタッフの日常などを書いています。2002年より毎日更新

ふたつの軸

■11/15の日誌のコメント欄、あんみつさんの投稿から。

通常ならどうということない言葉でも、弱っている時にはこたえてしまうことってあるじゃないですか、人は。そして、励まされるような言葉があっても、それよりも、こたえた言葉の方だけみえてしまう、記憶に残ってしまう、ということがありがちだと感じるんですよね。

■学校の先生にとって生徒の不登校や中退はとても辛いことだと思う。「もっと何かしてやれたのではないか」と悔いている教師と会ったことも何度もある。そういう“傷”を抱えた教師であれば、研究会でも自分たちばかり責められていると、「こたえた言葉の方だけみえてしまう、記憶に残ってしま」ったりすることはあるかもしれない。

■親は親で叩かれたように感じ、教師は教師で責められたように感じて、俺のようにどっちつかずの立場は厳しい言葉を受けることもなく気楽なのだが、それでもこたえることはある。「いくら学んだって当事者の気持ちはわからない」。「事件は現場で起こってるんだ」ばりのこういうセリフを聞くのは辛い。それを言われちゃあねえ。お終いよ。そもそも、こういう、拒絶をもって「わかって」と迫るやり方は苦手だ。「勝手にすりゃあいいさ」と言いそうになるのを必死でとどめる。

■まあ、他人のことはいい。少なくとも俺は現場や当事者を振りかざすのはやめようと、その度思う。ところで、今日、道教委の人たちと会合を持った。役所といえば、やたらと現場と当事者に叩かれるところである。俺もそうやって叩いたことがあるがそれは忘れて、今は振りかざさない人なので、穏やかに話した。

■そもそもこの会合は、フリースクールネットと教育委員会が、「交渉」ではなく、ごく普通の関係で話をしようということで企画された。きっと、就業時間後に近所の赤提灯辺りでやるのだろうと楽しみにしていたら、16時から教育委員会の会議室で、と言われてちょっとがっかり。コーヒーは出たけども、フリースクール道教委で向かい合う形で、しかもお互いどさっとメモに書類を目の前に広げて、これじゃ交渉のテーブルとなんら変わりない。手ぶらでやろう、手ぶらで。ペン1本(それもペン回しのためのペン)しかもっていかなかった俺は思った。

■それでも、終わり間際にはずいぶん打ち解けた感じになった。電話が来てちょっと中座したのだが、戻ってきたら、「今度は書類なしで、ざっくばらんに話しましょう」なんて会話になっている。心の中で拍手した。俺と道教委が仲良くなろうがどうしようが“渦中の人”には関係ないと言う人は言うだろうが、現場もこういう会合も、ふたつとも車輪の軸である。

■その他訪問1件(1件はキャンセル)に通信作成。しかし、昨夜からごたごた続きで、実際の活動以上にくたびれている。本当は合同教研で出た“傷”の話をしようと思っていたのだが、それは延期。早く寝よう。


※本日の脳内BGM:そして僕は、途方にくれる(大沢誉志幸