漂流日誌

札幌のNPO「訪問と居場所 漂流教室」のブログです。活動内容や教育関連の情報、スタッフの日常などを書いています。2002年より毎日更新

2004合同教研全道集会

■分科会「障害児・障害者の教育と福祉」に出席したのは、軽度発達障害特別支援教育についての分散会があったからだ。漂流教室にもこうした子供たちは多い。養護学校・高等護学校の先生たちから対応についてのヒントが得られると思っていた。

■しかし、二日間の議論でわかったことは、軽度発達障害を持つ人は通常の教育からもこれまでの特殊教育からも見いだされることが無かった、狭間の人たちなのだということだ。養護学校・高等養護学校においては、軽度発達障害の人たちは普通学級にいて問題になっている子であり、これらの学校の先生たちがこれまでは受け持つことが無い人たちであったのだ。ぼくはそんなことはちぃとも知らず、上述のように思っていた。

■結局、ぼくらも養護学校の先生たちも、これからがスタートであるという点は一緒なのだ。障害児にどう接するかという心構えでは、当然後者の方が先んじていると思うが。

■軽度発達障害を持つ人は、小中学校においては「指導困難な子供」と扱われ、障害を認知した上での指導がなされていなかった。それが最近になって見いだされ始め、学校の対応を如何にするべきか検討を急いで行い、特別支援教育という形で来年度から実施される。そのモデルパターンを作るように、各地域でモデル校が選ばれて模範的システムの構築を試している。実際にモデル校でどのような取り組みをしているかの報告があった。

特別支援教育についている予算は一億円程度だという。障害を持った人の支援は個々のニーズをつかみ実現することが必要なはずだ。それには当然教える側の頭数を増やさなければならないのに、この予算では到底無理だろう。先生一人当たりに払う金が一年で400万だとして、30人いかずにおしまいだから。では、とりあえずどうするのか。ぼくは今子供と会っている先生たちを支援するシステムを作ることならできると思うのだが。学校の内外と連携して、担当の先生をサポートするための会議を定期的に行うようにしたり、ティーティーチングを行っているなら、子供を複数の先生の目で見るようにしたり、金をかけずにまずできることを考えるしかないだろう。

■昨日の相馬氏の報告

今までは「不登校」という言葉で一まとめに括っていたものが、この子は発達障害が、この子は家庭の経済状態が、と分けて見ることが出来るようになってきている。もちろん、それは一方でまた別のカテゴライズを生み、新たな偏見の元になったりもするのだが、子供に対して複数の目が注がれるようになってきた、ということは間違いない。

という点は同感。今回の議論の中で、分科会がセクショナリズムの現れなのではないか、というような話があった。でも、こと不登校ということに関していうなら、不登校は現象でしかないのでそれについて語るときにはいくつかの核になる視点をきちんと分けなければならないはずだ。よって、最終的に統合されるなら、セクショナリズム大いに結構だとぼくは思う。一つの視点を深く掘り下げて見ていくことと、その視点が他の領域との間にどのような関連を持ちうるのかを考えていくことの二つが必要なのだ。例えば、経済状況からくる不登校という事例を色々見ていくと、その経済状況は親が軽度発達障害を持っているのに理解有る教育を得られなかったことから連鎖反応的に生まれていた、ということもあるかもしれない。

        ※今日の脳内BGM:鬼殺し半分子with落☆武者”ニョキニョキ”