漂流日誌

札幌のNPO「訪問と居場所 漂流教室」のブログです。活動内容や教育関連の情報、スタッフの日常などを書いています。2002年より毎日更新

バランス悪いので

■土曜日に発熱したので月曜日まで休めとドクターより。おやすんだよ。

■先週書いたように、どうも活動のバランスが悪い気がしてきている。漂流教室が子供の貧困対策について活動する団体というのは、ちょっと違う。不登校や引きこもりの人たちと関わりだして見えてきた様々な困難の一つが貧困であるのは間違いない。それに対応するのも必要なことだ。しかし、漂流教室のやろうとしていることは、そうした困難を抱えた人が年齢と共に変化して、自分の人生を自分でコントロールしていこうという時に、社会と自分をなだらかに接続していくことへの支援だ。

発達障害に特別支援、精神疾患に治療、引きこもりに就労支援、貧困に経済的支援、それぞれの困りごとの中心的課題は支援で埋められるかもしれない。しかし、人生を俯瞰してみた時、生きることの質はそれだけで高まるものではない。以前、自由学校「遊」のパネルディスカッションでも話に出たが「貧困が解決されればそれでいいのか」なのだ。特別支援教育を受けて就労できればその人の人生は万々歳であるのか、なのだ。生きることは楽しいと実感できるには、まだ何か足りないのだ。ところがそれはもはや「〇〇支援」からは離れてしまうので、世の中では自分で見つけろ、と言われがちなことだ。

■自分はそこそこ人生を楽しみながら生きていると思っている。ワーキングプアと呼ばれるような状態であっても、様々な情報を取り入れたり、文化的な活動を楽しんだり、政治について考えたりして、自分の時間を作り上げている。それは間違いなく人生のある時期まで、発達・心身の健康・経済的に充足できたから可能になったことだと思う。そして、この基盤は自分で得たものではなく、周囲の人々が与えてくれたものがほとんどだ。これがもし何かしらの困難があればどうだったろうか。その困難を乗り越えることにエネルギーを使わねばならず、その先の楽しみは得づらかったのではないか。自分は、楽しさの再生産ができると良いと思っている。そのためには、困難を乗り越えた先をどうするかまで考えなければならない。

■しかし、楽しさというものは上段で書いたように、自分で見つけろと言われがちであり、それを伝えるのはおせっかいと捉えられがちである。でも、楽しんで豊かに生きることはその人一人だけでは叶わない。多分、困難を乗り越えた先の楽しさは支援では得られないが、人と関わることが基盤になっているはずだ。そして、それは毎日の生活そのものを充実させることだと思う。楽器を弾けなくても鼻歌で音楽を楽しめるように、絵を描けなくても見て楽しむことはできるように、詩は書けなくても言葉遊びはできるように、生きていくことができるといい。そんな実感を得ることのできる、人との関わりを作っていけないものか。訪問や居場所はそのために使えるはずだ。何かのイベントをきっかけにもできるかもしれない。今後は、そういう動きを作っていきたいと思う。(火曜日)